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住職ノートnote

イワシの頭も信心から (そのⅠ)


タイトルの言葉は、『広辞苑』によれば、鰯(イワシ)の頭のようなものでも(←鰯さん、ゴメンナサイ)信仰すれば有難く思えるという意味です。もっと言えば、「何でもいいから、信ずる心が大切だ」というようにも使われているような気がします。

これは案外、説得力があり、納得しやすい言い方です。総じて、どの宗教も「まず、信ずることから…」といいますから…。

し・か・し…? ここで、よく考えてみてください。

なるほど、「鰯の頭…」の場合、信じている人の心(信心)は、確かなものでしょう。ところが、その一方で、信じられる「鰯の頭」の方は、アテになりません(不確かなものです)。

たとえていうなら、ちょうど、「明日の天気は、絶対に晴れだ」と信じている時の「信じ方」と同じです。でも、ご承知のとおり、明日の天気は、その通りになるとは限りません(不確かです)。明日を晴れと信じている自分の心は確かなのですが…。

あるいは、飛行機を利用するときに、飛行機のことを信じますよね。「他の飛行機は落ちても、この飛行機はだけは墜落しない」…と。そうでも思わ(信じ)なければ、乗れません。大切ないのちを任せられません。

でも、これまた、天気と同じで、確かなのは「落ちない」と信じている自分の心の方で、信じられる側の飛行機は、やはり「不確かな」ものです。

くどいようですが、もう一つ。宝くじはどうですか。私は最近あまり買いませんが、買っていた頃は、宝くじを手にした途端に、億万長者の夢ここちでした。

しかし、これもまた天気に同じ。私の「当る」と信じた心は確かでしたが、宝くじの方がアテにならない…。

つまり、「鰯の頭」的な信心は、その信じる心は確かかもしれませんが、信じられている側(対象)は、不確かな(いい加減)なものです。

いや、確かかどうかは、わからないけど、そのことは考えないで(無視して)、とにかくシンジル。そういう意味では、信心というより「思いこみ」と言った方が適切かもしれません。

私たち浄土真宗では、このような「思い込み」的な信心を、「自力の信心」として否定します。

かけがえのない私のいのち(人生)を、自分が思い込んだ不確かなものを「依りどころ」として生きるのは、あまりに空しいことではありませんか。 (そのⅡに つづく