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住職ノートnote

対治と同治(アミターユス=限りなき慈悲)


五木寛之氏の「生きるヒント3」という本に「対治と同治」という言葉がありました。五木氏が同書の中で、駒沢勝という方のエッセイを引用してある部分です。これは本来、仏教の言葉だそうですが、私自身も初めて聞いた言葉です。

その内容は まさに 仏さまの慈悲、とくに「悲」(カルナー=うめく)のはたらきを示してあると思います。阿弥陀とは、梵語「アミターユス」(限りなき慈悲)の意です。

「対治と同治」は、原文のままでは、とても長くなるので、及ばずながら私なりに次のように要約させてもらいました。(できれば原文=上記の本=をお読み下さることをお勧めします。)

※ ※※ ※

駒沢勝氏は「医と私と親鸞」というエッセイの中で、「対治と同治」ということを引いておられます。

たとえば、発熱に対して、氷で冷やして熱を下げるようなやり方を対治といいます。 これに対して、十分に温かくしてやって、汗をたっぷりかかせて熱を下げるようなやり方を同治といいます。

また、悲しんでいる人に、
「いつまでもクヨクヨしてても仕方ないよ。さあ、元気を出そう!」
というふうに励まして、それで悲しみから立ち直らせるのが対治です。

これに対して、黙って一緒に涙を流すことによって、その人の心の重荷を少しでも自分の方に引き受けようとする、そういう態度は同治です。

しかし、この同治を「その人の身になって親切に対応すること」ではないと駒沢氏は事例をあげて紹介されます。

ある神経性食欲不振症の子どもの治療においての場合です。主治医も周囲の人々すべてが患者のことを思い、その相手のことを自分のことのように本当に親身になって寄り添いました。そして、その子どもが食べるようになるための努力を惜しみませんでした。

しかし、それは同治ではありません。というのも、これら周囲の人たちの努力は、結局、「食べないことは許さない」という一点において、この子と対立していたのです。つまり、対治だったのです。

対治は否定から出発しています。悪を否定する、病気を否定する、不自由を悪と考え、それを叩きつぶし、切除することで善を回復しようとします。

しかし、老いを否定できるでしょうか。死を否定できるでしょうか。それはできません。

そして、とことん打ちひしがれた人々を救うのは肯定の思想、同治の思想なのではないかといいます。 慈悲の「悲」とは、まさにこの同治のはたらきです。

さらに駒沢氏は同治にちかいものを、親の子供に対する態度の中に、ときに見ることができる、と、書いておられる。

たとえば、我が子が死ぬときなど、
「何とか生きてくれ、死んだらだめだ」と、子によりかかって泣き崩れる親が殆どである。

頑張れという励ましは、まだ立ち上がれる余力と気力があると時には いいかもしれない。しかし もう立ちあがることのできない状態のときは 上滑りしてゆくだけである。

だが、たまに死に往く我が子に
「よしよし、よう頑張った。もうよい、もうよい、しんどかったなあ。もうよい、もうよい」などと言う親を見ることがある。これは死を受け入れた、肯定した態度で、同治である。

死ぬしか道の無い者に生きろというのは、生きるしかない道のない者に死ねと言うのと同じである。死ぬ者に死んで良いと言う者こそ、本当の味方ではなかろうか…と。

阿弥陀さまの慈悲は、「頑張れ」という励ましではなく、私と共に今を引き受けて下さるはたらきといえましょう。(ちょっと、ムズカシカッタかなぁ)