言  の  葉

   人間、みんな  裁判官

     他人は有罪、自分は 無罪

門前の掲示板に貼ってあったとき、見た人が 「ニヤリ」と苦笑いを浮かべていたのが印象的でした。

私たちは どうやら、いつも
「自分は正しくて、他人が間違っている」という思いの上に立っているようです。

他人が失敗すると、
「あいつはダメだ」
「なんてことをするのだ」
と容赦なく責めます。

反対に自分が失敗すると、
「あの時の状況では 仕方なかった」
「まああの位で済んでよかった…」
などと情状酌量、万全な弁護団が動いて、見事に 無罪 です。

他人のときには 情状酌量の余地はなく、弁護人を認めず、「悪いものは悪い」と 有罪が 最初から確定しているようです。

この言葉を読んだ人が 苦笑いをされたのは、まさに自分の姿を言い当てられたと感じたからでしょう。

しかし、当然のことですが、他人が裁判官で裁く法廷では、「他人が無罪」で「自分(私)が有罪」となります。

そしてそれは 誰もが 自分の都合に合わせて自分で書いた六法全書をもとに「判決」を下すわけですから、他人が裁判官で自分が被告の場合は いつも「不当判決」です。
教えに遇う(あう)とは、こんな不当判決に 裁き裁かれるのではなく、
すべてを丸ごと包んでいて下さる 仏さまの教え=真実の法=に照らされて 自分のあり方が明らかになっていくこと でしょう。

それまでは、自分が自分中心の判決を下していたことさえも、気づかずにいたのでした。
それに気づかされたとき、すでにもう 仏さまの光の中なんです。

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