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ひらがな法話hirahou

おまたせいたしました


弥陀成仏のこのかたは
今に十劫をへたまへり
お待たせいたしました
すみません

これは、あるお寺で拝見した、山口県の藤永清徹という和上様が書かれた色紙のことばです。正信掲和讃六首引のときの一首目にある

弥陀成仏のこのかたは
今に十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり

という和讃の前半2句と同じですが、後半は 小さな字で遠慮がちに

おまたせいたしました
すみません

と書いてありました。

これは どういうことでしょう。

まず、 「弥陀成仏」とは、阿弥陀如来(法蔵菩薩)さまが、この私を救うためにご本願を建てられて、その願いを成就されて仏さまになられた(成仏した)ということです。

次に、 「十劫をへたまへり」とは、阿弥陀さまが、この私を必ず救うと南無阿弥陀仏となってこの私によびかけ、待ち続けて下さって、すでに十劫という、長い歳月が経ったことを言います。

十劫とは、時間の長さで、五年十年にことではありません。何億年どころか、思いもおよばぬ、気の遠くなるような長い時間をいいます。

そしてその間、この私は人間に生まれることもなく、地獄や餓鬼、畜生の世界を生まれかわり死にかわり、迷いつづけていました。

しかしながら阿弥陀さまは、その気の遠くなるほどの時の流れの間、ずっとこの私を待ちつづけ、この私が「人間として生まれ、仏法に出遇っておくれ」そして、「お念仏もうす身となっておくれ」と、心配し通しなのでした。

もしも、私が待ち合わせの約束をして、相手が時間を過ぎても来ない(待つ)としたら、どうでしょう。

まずは、イライラするでしょう。そしてだんだん腹を立て、二時間も過ぎれば、待つことを止めてしまいます。(つまり見捨てます)
だからこそ、藤永和上は、十却の間待ちつづけて下さった阿弥陀さまに、「お待たせいたしました」と言わずにはおれなかったのでしょう。

そして、どれほど待たされようとも、決して見捨てることのない阿弥陀さまに「すみません」と言葉を続けられたのでしょう。

ふだん、何気なく「♪弥陀成仏のこのかたはァ、ァ…♪」と節回しばかり気にかけて拝読していた自分が恥ずかしくなりました。

今、生まれがたき人間に生まれさせていただき、遇いがたきお念仏のご縁に遇わせていただいたことです。

私にさんざん待たされた阿弥陀さまは、「待ちくたびれたぞ」とはいわれません。「ようこそ、お念仏申す身となってくれた」とよろこんでくださいます。

「おまたせいたしました  すみません」という言葉に、私の思いを添えさせていただくならば、「ありがとうございます」とお礼申さずにはおれません。

弥陀成仏のこのかたは
今に十劫をへたまへり
おまたせいたしました
すいません
ありがとうございます