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ひらがな法話hirahou

疑わしいので「信じます」


法話の中身を「信じること」や「信心」ということを問題にしない宗教はありません。

しかし、私たち浄土真宗では「信じます」とか、「信じています」などと、自分が信じていることを表明したり、させるようなことは、まずありません。

それどころか「信じています」と 言えば、それは 「疑っていることである」とさえいわれます。いったい、どういうことでしょう?具体的な例で考えてみます。

たとえば、アナタが今、奥さんが作ってくれた味噌汁を手にしているとします。そして、その味噌汁を飲む前に、お椀の中と奥さんの顔を交互に何度か見比べた後、奥さんに向かって、
「信じてるからね…」と言ったら、どうでしょう。

奥さんは きっと怒りますね。

「何ですか、あなた!毒なんか入れてませんよ。私のことを疑っているのですか!」…と。

これで おわかりでしょう。間違いのない、絶対大丈夫な、確かな相手に対して「信じてます」と念を押したり、確かめたりする必要はないのです。

反対に、疑わしい、何をするか信じられない相手が作った味噌汁ならば、「信じてますよ」と念を押さずには おれないのです。

間違いのない(信頼できる)自分の奥さんが作ってくれた味噌汁だから、「信じているよ」と念を押すことは、いらないのです(註:これは、あくまでお互いに愛し合い、睦み合う、良好な夫婦関係であること前提としています…あしからず(^^ゞ )

今、私たちは、どんなことがあっても、決して間違うことのない、確かな阿弥陀如来さまの お慈悲の中につつまれています。

ですから、阿弥陀さまに対して、「信じています」と念を押す必要はありません。私が 念を押そうが押すまいが、如来さまの方が 確かなのですから、こちらは、「ようこそ ようこそ」とお任せするばかりなのです。

仏さまに対して、「信じてます」というのは、「疑い」である、というのはこういう意味です。

ですから、南無阿弥陀仏は 阿弥陀さまに対して、「信じています」と伝えることではなく、阿弥陀さまの お慈悲の中につつまれている今を、「有難うございます」とよろこばせていただくお礼であると 私は聞かせていただいています。

▼ このお話は、何年か前に「石見の才市顕彰法要」にお越し下さった藤田徹文先生がお聞かせ下さったご法話の中で、私がメモに留めたことをもとに書かせていただきました。