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住職ノートnote

「前向きに生きる」とは?


「前向きに生きる」とは、どういうことでしょう。

私たちが生きてゆく 人生は、さまざまな「変」から成り立っているといえます。具体的いえば、生・老・病・死 、入学・卒業、結婚・就職など、「いままで」と「これから」が違うこと、つまり、それが「変」です。

今、 前向きとは 、その「変」の前で 立ち止まらずに、それと歩調を合わせて一緒に歩むことと 定義します。

とすれば、年老いてゆく中に、
「あの(若い)頃はよかったのに…」と 嘆くのは後向きです。
嘆くその瞬間も 刻々と進む老いと共にあゆむことができず、取り残されているわけです。

50才の時にわからなかったことが 60才になってうなづけた…。
この年齢にならなければ わかないことがあるものだ…。と、老いと共に歩いていくのが「前向き」でしょう。

また、病気になったときに、
「今まで元気だったのに、どうしてこんなことに…」と嘆く姿は、病気の現在と一緒に歩いていません。
「病気になって 初めて家族とこんなに話ができた…」となれば、病と共に歩みを運んでいることになります。

そういう意味では、前向きに生きるとは、「今」を引き受けて 生きること と いえるかもしれません。

そして、やがてだれもが人生最後の「変」である「死」に臨みます。
そのとき、浄土往生を信じる人生は、「今生の終わりである死はまた、浄土への一歩」として踏み出すことのできるのです。これは 前向きです。

しかし、 現世しか待たないような生き方は、どんなに 前向きだと言っても、見せかけに過ぎません。
「死んだらしまい」という生き方では、その先は何もないのですから、死の淵の前に立ちすくんでしまいます。これは後ろ向きです。

さらに親鸞聖人は、 浄土に生れた いのちは、そこが立ち止まる最終点ではない といわれます。
浄土へ往生したならば、そこに留まることなく、今度は 遺してきた子や孫たちを導くために この世界に戻っていくのです。

つまり、浄土に留まることなく、さらに一歩を踏み出すという訳ですから、浄土真宗門徒は、 徹底的に前向きであるといえるでしょう。
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これは、本願寺から全国の寺院へ毎月届けられる浄土真宗の『宗報』(平成7年新年号)の巻頭言「前向きに生きる」とは?(大峯顕氏筆)を読んだ後の私のメモを元にもう一度 味わってみました。