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人生の栞Shiori

どこでも ド真ん中


ふつうの場合、「真ん中」というのは、一つです。

「中心」や「真ん中」が、2つも3つもあるとは考えません。部屋の中心(真ん中)、パソコンの画面の中心も一箇所(一つ)です。

ところが、こんな場面ならどうでしょう。

周りを水平線に囲まれた大海原に浮かぶ船がいくつかあったとします。
そこで、それぞれの船の人たちに「この空の真ん中を指差して下さい」とたずねたならば、どの船の人も自分の船の真上を指差します。

どういうことでしょう?

大海原では、一つしかないはずの「真ん中」が たくさんあるのです。
これは、 限りがなく、果てしない世界では、その中心がたくさんある、ということを示しています。

つまり、無限の中につつまれる時、自分のいるところがそのまま、その世界の中心となるのです。そこでは 他のすべての人たちにとっても、やはり「自分」のいるところが「真ん中」になります。人の数ほど「中心」がある、といえるでしょう。

 

さて、阿弥陀如来さまは、「十方衆生(生きているものすべて)を必ずすくう」と呼びかけていて下さいます。
そして、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきは、何ものにも妨げられることなく(限りなく)届けられます。

ですから、親鸞さまは、「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、 ひとえに 親鸞一人が ためなりけり」(歎異抄)と言われました。
つまり、阿弥陀さまのおすくいは 親鸞一人のため(すくいの中心は自分)だといわれます。

もちろん、私たちも その親鸞という名を自分の名に置き換えて、「○○一人のため」といっていいわけです。なぜなら、私たちは今、阿弥陀さまの果てしなく限りのない智慧と慈悲のはたらきの中にあるからです。

さて、子を思う親心は仏さまが衆生を思う心と似ているといいますが、私たちの親心は「自分の子」に対してのみです。「よその子」までは心配しません。

ところが、限りのない智慧と慈悲の阿弥陀さまの親心の中では、だれもがド真ん中。「よその子」はありません。みんな「うちの子」です。