(道しるべ)

日日の暮らしの中で、「なるほど」とうなづかされたり、
「う〜ん」
と考えさせられる言葉に出会うことがあります

そんな
言葉のひとひら(言の葉)を、お寺の門前の掲示板に書き出しています。
選考基準は、まったく私(住職)の独断です。
このHPには、コメントつきでその一部を紹介させていただきます。



目はかすみ

  だれにも負けることが
        できる人は  天下無敵だ

門前に掲げる言葉の候補をいくつか並べたとき、長女が選んだ言葉です。

相手の素晴らしさ(勝ち)を認め・讃える(負ける)ことができる人は、もう勝ち負けを超えています。
勝ち負けを超えているから、負けることも ありません(無敵です)。
いつまでも、負けにコダワリ、言い訳したり、勝った相手を認められない間は、勝っても負けても敵ばかりです。

今、勝負を生死に置き換えてみます。
生きることだけにこだわって 死をごまかし、認めない立場は、本当に生きる意味に出会えない。
死をしっかり見つめて問うとき、生死を超えた死なないいのち(無量寿)にであうことができるのでは…。
そんなことを考えました。



目はかすみ

         ■ 千の風になって ■

   私のお墓の前で   泣かないでください
   そこに私はいません   眠ってなんかいません
   千の風に  千の風になって
   あの大きな空を   吹きわたっています

   秋には光になって   畑にふりそそぐ
   冬はダイヤのように   きらめく雪になる
   朝は鳥になって   あなたを目覚めさせる
   夜は星になって   あなたを見守る

   私のお墓の前で   泣かないでください
   そこに私はいません   死んでなんかいません
   千の風に   千の風になって
   あの大きな空を   吹きわたっています

   千の風に   千の風になって
   あの大きな空を   吹きわたっています

   あの大きな空を 吹きわたっています


この詩を読んで、私はすぐに この「言の葉」で紹介させていただいている
田久保園子先生の「風船の話」を思い出しました。
その中の大きな大きないのち」、ここでは「千の風」と表現されるのでしょう。

そういえば、日曜学校(子供会)の指導をして下さった先生が 教えて下さった歌に「仏さま」という題で、こんなのがありました。

    仏さまは どこに どこにいらっしゃる
       春は花咲く 枝のもと
       夏は 水辺の 草のかげ
       秋は 空行く 雲の上
       冬は 窓打つ 雪の中
       いつも どこかで 見ていて下さる
       いつも なにかを 教えて下さる
       仏さまは あれあれ あそこに いらっしゃる


「死んだらしまい」ではない。大いなるいのちに帰らせていただく。
念仏の道でいうところの「浄土」をいただいた生き方を 理屈ぬきで 味わえる詩だと思いました。
※ ※ ※
これは朝日新聞『天声人語』が紹介し、大反響となった作者不明の英語詩(新井 満訳)です。
米国、同時多発テロの一周忌で、父親を亡くした11歳の少女が朗読したり、IRA(アイルランド共和軍)のテロで命を落とした24歳の青年が、“私が死んだときに開封してください”と両親に託した手紙の中に、この詩が入っていたといいます。

Web上でも「千の風になって」をキーワードで検索すれば かなりあります。ここも↓
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062121247/249-8868152-8554746
ちなみに 原文は次のとおり
      I am a thousand winds
                                          Author Unknown

    Do not stand at my grave and weep;
    I am not there, I do not sleep.

    I am a thousand winds that blow.
    I am the diamond glints on snow.
    I am the sunlight on ripened grain.
    I am the gentle autumn's rain.

    When you awaken in the morning's hush,
    I am the swift uplifting rush
    Of quiet birds in circled flight.
    I am the soft stars that shine at night.

    Do not stand at my grave and cry;
    I am not there, I did not die.





目はかすみ

  目はかすみ   耳は 蝉鳴き  葉は落ちて
         霜を頂く    歳の暮れかな


これは 博多の禅僧・仙高フ歌と 聞いています。(未確認)

かすみ(=春霞)・蝉鳴き(=耳鳴り)・葉は落ち(=入れ歯)・霜(=白髪)…と 老いゆく姿を春夏秋冬の中に見事に読み込んであります。

でも、これら(霞・蝉・落ち葉・霜)はみんな サインです。私に「そろそろだぞ…」「近いぞ…」と知らせてくれるサインです。
しかし、そのサインが出ているのに うかうかと忙しい忙しいとドタバタしています。

電車の車掌さんが、「まもなく終点です。お忘れ物はございませんか」と聞いてくれるように、人生の終点は「そろそろ近い」のです。身体からのサインもお見逃しなきように。

「人生の忘れ物」は ありませんか。

[メモ]
仙香iせんがい):
江戸時代、良寛・白隠に並ぶ軽妙洒脱な臨済宗の禅僧。
臨終の際に「死にともない、死にともない」と言ったとか。弟子たちはあわててその真意を問うたところ 「ほんまに、ほんまに」 と答えたと伝えられています。

※仙 や仙 は間違い。仙 が正解。
ひらがな法話  「わすれもの」 もご覧下さい





いただきます

   「いただきます」と
         言って 食べるのが 「食事」
         言わずに食べるは 「エサ」

ある小学校では給食の時、「いただきます」と言って合掌するのは、宗教儀礼であるという理由で、禁止されたと聞きました。
じゃあ、「いただきます」の代わりは、といえば 先生が「ピー」と笛を吹いたり、「ドン」と太鼓を鳴らすとか…。

なんだかクマ牧場のクマが 目の前のエサを我慢して、飼育員の笛を合図に エサを食べ始める場面が思い出されます。

そうそう、街中のレストラン・ファーストフード店に言ってみて下さい。「食事」の時間に エサを食べている人たちが  いっぱいいます。<(_ _)>
ひらがな法話  「お命 いただきます」 もご覧下さい



人間は 耳が二つに

  幸せだから 感謝するのではない
  感謝できることが 幸せである


いい言葉だなぁーと思って調べてみると、結構いろんなサイトで見つけることができました。ただ、後半の部分が
「感謝するから幸せになれる。」
「感謝しているから幸せなのです」

という言い方でした。これでは 感謝が「幸せの条件」になってしまいます。

そうではなく、感謝ができる「今」、「ここ」、「自分」を引き受け、認めていけることが、すでに本当のよろこびの中(幸せ)であるのだと思います。

そう、だから世界一の幸せ者になる方法 は、ただ一つ!
「世界で この私ほど 果報者(しあわせな者)はありません。」と、よろこべたら、その人は 間違いなく世界一の幸せ者です。

これは、決して「ものは言いよう、思いよう」という意味ではありません。逃げることも代わることもできない自分の人生の中で、「今」を、「ここ」を、「自分」を引き受けていく時、はじめて言うことの出来る言葉でしょう。

反対に、世界一 不幸せになる方法 も簡単。 「世界中で 私ほど 不幸な者はいない」という人が、きっと 世界一の不幸者でしょう…。


人間は 耳が二つに

   人間は 耳が二つに 口一つ
   多く聞いて、少し言うため


考えてみれば(いえ、考えなくても…ですが)
「飲む」「食べる」「歌う」「話す」…とたくさんの役目(はたらき)を
もっている口は、たった一つしかありません。
そして、ただ「聞く」という役目しかない 耳が二つあるのは、不思議なことです。
(ここで、耳にはメガネをかける役目がある…なんて言わないで下さい)

つまり、「話す倍ほど、聞きなさい」ってことかもしれません。
ついつい、「聞く倍ほど、話す」のが、ワタシです。
まあ、それほど 「聞く」ことが大切であり、また難しいってことでしょう。

「自分」=我=を置いて、素直に耳を傾けて聞く…。
これほどたやすく、それでいて難しいことはありません。
人生の栞   → 耳をすまして…


おかげさま

   年令が高くなると、若さから解放される。
   今、その自由感にるんるん
(岡部伊都子)

若いことは「よいこと」で、老いることは 「悪いこと」。
健康は 「よく」て、病気は「駄目」。

こんなふうに 良し悪しを分けて それにこだわり・とらわれることを仏教では分別(ふんべつ)といいます。

でも、仏さまの智慧は、分別ではなく無分別です。「若さ」と「老い」、「健康」と「病気」、それらを分けて良し悪しをいうのではなく、それぞれの中に生きる意味を見出し、引き受けていく教えです。

若いときも 老いた時も、健康であっても病気になっても、自分の「今」をしっかりといただいていける道が 仏教です。
「老い」や「病気」を否定し、「若さ」や「健康」を追い求めている人があって、その人自身が 年を取り、病気になったならば、そのときの 辛さ・苦しさは 、はかり知れないものでしょう。

この岡部さんの言葉は、まさに無分別の解放感があふれているような気がします。



おかげさま

   遺産なき  母が唯一の  ものとして
   遺(
のこ)しゆく死を  子らよ受け取れ

これは、岡本太郎の母である岡本かの子の歌だと聞きました。
宗門の行政区域(組)が当寺と同じである寺院の前住職の通夜席で
聞かせていただきました。

お金よりも、家屋敷よりも、親として 本当に子どもたちに身を呈して
教えて(遺して)いきたい真実。すなわち「死」という必ず引き受けていかねば
ならない厳しい真実を誤魔化さずにしっかり見据えておくれ。
自分の いのちを 精一杯大切に生きよ…。

そんな 親の願いの強さ・深さを 最後の「受け取れ」という命令形の言葉に
感じずにはおれません。



おかげさま

  雨は ウンコの上にも おちなければなりません
  イヤだといっても
  ダメなのです
  だれも
  かわってくれないのです

これは、野村康次郎という方の詩です。

『仏説大無量寿経』にある
「人在世間・愛欲之中・独生独死・独去独来・」
(人は世間愛欲の中にありて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る)
「當行至趣・苦楽至地・身自當之・無有代者」
(まさに行きて苦楽の地に至り趣くべし、身自らこれに当たり、代わるものあることなし。)
という言葉どおりの詩です。

「身自当之、無有代者」とは、まさに、
私たちが生きていく、すべてのことは、自分自身がこの身で引き受けていかねばならなず、誰も代ってくれる者はないということです。

私のいのち(人生)を私の代わりに生きてくれる人はありません。
自分の人生は、逃げたり、ごまかすことのできません。
それならば、いただいたいのちを いのちいっぱい 生きてゆきたい…。そう思わせてくれる詩です。



「小さい勇気をこそ」

  「小さい勇気をこそ」 東井義雄

     人生の大嵐がやってきたとき
     それがへっちゃらで乗りこえられるような
     大きい勇気もほしいにはほしいが
     わたしは
     小さい勇気をこそ ほしい

     私のたいせつな仕事を後まわしにさせ、
     忘れようとする小さい悪魔が
     テレビのスリルドラマや漫画に化けて
     わたしを誘惑するとき
     すぐそれがやっつけられるくらいの
     小さい勇気でいいから
     わたしはそれがほしい

     もう五分くらいねていたっていいじゃないか、
     けさは寒いんだよと
     あたたかい寝床の中にひそみこんで
     わたしにささやきかける小さい悪魔を
     すぐやっつけてしまえるくらいの
     小さい勇気をこそほしい

     明日があるじゃないか
     明日やればいいじゃないか
     今夜は  もう寝ろよ  と
     机の下からささやきかける小さい悪魔を
     すぐ  やっつけてしまえるくらいの
     小さい勇気こそほしい

     紙くずがおちているのを見つけたときは
     気がつかなかったというふりをして
     さっさと行っちまえよ
     かぜひきの鼻紙かもしれないよ
     不潔じゃないかと呼びかける
     小さい悪魔を
     すぐやっつけてしまえるくらいの
     小さい勇気をこそ わたしは ほしい

     どんな苦難ものりきれる
     大きい勇気もほしいにはほしいが
     毎日 小出しにして使える
     小さい勇気でいいから
     それが
     わたしは  たくさんほしい

     それに
     そういう小さい勇気を軽べつしていては
     いざというときの
     大きい勇気も
     つかめないのではないだろうか。

東井義雄先生の詩です。
かなり 長めですが、あえて 全文掲載させていただきました。

この「小さい勇気」は、2003年、 日日あらたに (ONSAI)のテーマである、「ちょっとだけ」
に通じるものと思いました。
住職ノート  「ちょっとだけよ」



おかげさま

   「ぼくの舌  動け」
           というたときは
   もう動いた  後や
   ぼくより先に
   ぼくの舌  動かすのは
   何や?

これは、ある保育園での男の子(5才)のつぶやきだそうです。

私が眠っている間も、呼吸は続けられ、心臓は「年中無休24時間営業」で、はたらきづくめで私のいのちを支えてくれます。
目も鼻も口も、私の意志とは関係なく はたらいてくれます。

私が忘れっぱなしでも、決して忘れることない はたらきの中に 私の今がありました。

生きているつもり…でしたが、どうやら 「生きている」のではなく、「生きさせてもらっている」という方が本当のようです。



おかげさま

 一向宗(浄土真宗)の門徒は、

  弥陀一仏を信ずること専らにして 他の仏神を信ぜず、いかなることありても祈祷などすることなく、病苦ありても呪術・お守りをもちいず。

  みなこれ親鸞氏の力なり

江戸時代中期の儒学者・太宰春台が『聖学問答』の中で真宗門徒の姿勢をこのように表現してあります。大切な二度とない人生を 占いや呪術・迷信に振り回されることなく、いのちいっぱい生き抜いていけるのが、浄土真宗門徒のバリア・フリー・ウェイ(無碍の一道)です。



おかげさま

  たとえ 僕が死んだとしても、姉さん、泣きなさんなよ。
  僕は死んでも、どこへも行かないよ

  死ねばすぐにナモアミダブツになって、姉さんのところへ来るからね。
  どんなに仲がいい姉弟でも、身体のある間は、離れているけれど、
  僕が仏になったら、いつでも姉さんといっしょだよ。

  さびしいときは、「ナモアミダブツ」、「ナモアミダブツ」と、
  僕の名を呼んでよ。僕は、ナモアミダブツになるのだから…。


岩田アサオ先生がご法話の中でご紹介して下さった、20代で往生された弟さんの言葉です。「僕」と「姉」という文字を自分なりに他の人(どちらかは自分自身)に置き換えると、とても 有難いです。


おかげさま


 「おかげさま」と言いながら

 他人の悲しみに 気がつかないことが 多い

「おかげさま」という言葉を、私たちは案外、簡単に使っています。
そして、それも自分の都合のいい時だけに 「おかげさま」だったりします。
気がつかない(知らない・わからない)ところまで御礼を言うことが「おかげさま」です。

ひらがな法話 「おかげさま?おひなたさま?」




 ひまがないとは 気がないことよ

 参る気がありゃ ひまもある

浄土真宗のご門徒研修会資料の表紙に あった言葉です。

「お寺にお参りして、お聴聞(教えを聞く)しませんか…。」
「いやぁ、ちょっと 忙しくて なかなかヒマがありません…(^^ゞ」
…こういう時に、いい言葉ですね。

普段は 「参る気」⇒「やる気」に変えて 味わっています。



 空っぽのバケツは

 いちばん大きな

 音をたてる
 

通りがかりの お寺の掲示板にあった言葉です。
そこでは、「バケツ」ではなく「容器」となっていましたが、私が
西楽寺版としてアレンジさせてもらいました。
これも、下の詩と同様、解説抜きで お好きなように味わって下さい。



      わたしと小鳥とすずと

    わたしが両手をひろげても
    お空はちっともとべないが、
    とべる小鳥はわたしのように、
    地べたをはやくは走れない。

    わたしがからだをゆすっても、
    きれいな音はでないけど、
    あの鳴るすずはわたしのように
    たくさんなうたは知らないよ。

    すずと、小鳥と、それからわたし、
    みんなちがって、みんないい。



ご存知、童謡詩人 金子みすず (1903-1929)の詩です。
書店に「みすずコーナー」が設置されたり、ドラマ化されたりして近年にわかに注目を浴びました。小学校の教科書にも採り上げられました。

「金子みすず」で検索すれば、膨大な数のサイトがヒットします。
あるサイトには、この詩について「感想は書けば、詩が色あせる…」ありました。

浄土真宗のお坊さんは すぐに
「うん、これは 『仏説阿弥陀経』の青色青光・黄色黄光・赤色赤光…の心だ」といわれます。

たしかに 感想・解説は 書かない方がいいかも…。
「みんなちがって みんないい」

ほかにも、すばらしい詩がたくさんあります。
まだのお方は、是非 検索を…。


風船の話

   「ンパンに膨らんだ風船も、針をちょんと当てると、パンとわれてしまうけど、中の空気は外の空気に合流するだけだよ。

   いのちも同じだよ。大きな大きないのちの中に、人間ひとりひとりのいのちも 外に出ていくだけ。身体が亡くなっても、形は変わっても、中のいのちは外のいのちと合流するだけ。

   そして、大きないのちがまた新しいいのちを創るのだよ。」


田久保園子先生(東京ビハーラ副会長)講演録(鳥取・光賢寺だよりに掲載)より

田久保先生は、上の言葉につづいて
「病に伏せっていた私に、父が話してくれたことで、怖い怖いと思っていた死の見方が変わった。」
と述べておられます。



何のために 生まれて / 何をして よろこぶ
答えられないなんて / そんなのは いやだ

忘れないで 夢を / こぼさ ないで 涙
だから 君は 行くんだ ほほえんで

そうだ うれしいんだ 生きるよろこび
たとえ 胸のきずが いたんでも

      (「アンパンマン・マーチ」より)

ご存知でした?あのアニメ「アンパンマン」のテーマソングに、こんな歌詞があったこと。

忙しさの中、生きる意味など考えることなく、目先のことに振り回されている毎日です。

『仏説無量寿経』(意訳)に「人間は急がなければならないことを急ぎもせず、争わなくてもよいことを争っている…」とあります。

さあ、今こそ…。

* * * * * * * * * * * * * * * *

TVでは 上の1番でなく 2番の歌詞(→)が流されていたようです。

すると、「愛と 勇気だけが ともだちさ」 に、こだわった人がいまして、
「えっ!じゃあ、食パンマンやバタコさんやジャムおじさんたちは 友だちじゃないの?」と言ったとか、言わないとか…。
なにが君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!

忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ
どこまでも

そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ

ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため




辛いという 字がある
もう少しで
幸せに なれそうな字である
  
星野富弘 花の詩画集「速さのちがう時計」より
この言葉の前に、
幸せという 花があるとすれば
その花の つぼみのようなものだろうか
とありました。


世の中は 「こそ」二文字の つけどころ
おさまるも「こそ」 みだれるも「こそ」

な、なんという ヤヤコシイ歌でしょ。
でも、この意味は うなづかされるばかりです。

ヒントは この歌↓
こそこその こそはこちらの ものならず
こそはあちらの こそにこそあれ


何? 余計にわからない? そんなお方は、ひらがな法話「風が吹けばこそ」へどうぞ…。

アミダさま
僕が僕であることを
認めてくれて ありがとう
そのままでいい、と
いわれて
このままではいけない、
と思うようになった
(富山県 善巧寺 のご住職 雪山俊隆様の言葉です)

そうでした。
アミダさまは、私に、
立派になれ、善いことをしなさい、とは おっしゃらない。

なかなか 立派な人には なれません。善いことも できません…
そんな「わが身を知れよ…」といわれます。

だから、「そのままでいい」と。
でも、いつしか その言葉に甘えていました。

「そのままでいい」と認めてくださるアミダさまの願いを聞けばこそ、
「このままでは いけない」と 力強く 生きぬくことがことができるのです。


歯が抜けて 噛み締める 親の味
子を持って知る 親の恩とか 言いますが、
近所のおばあちゃんは 教えてくれました。

「子を持って知らされるのは、親の恩のうちの半分じゃ。
残りの半分は、親を見送らなければ(亡くさなければ)わかりませんよ。」

「歯が抜けて」とは、親を見送るような歳になって…という意味でしょう。
堅いものは 噛めなくなったその時、 噛み締めるものがありました。


人生はすべて 次の二つから成り立っている
  したいけれど…できない  
  できるけど…したくない(ゲーテ)

さすがゲーテさん。うまいことおっしゃる。
逆を言えば   「できないことをしたがり、したくないことをやらなくちゃいけない」ってことか。

今までは 人のことだと思うたが
俺が死ぬとは こいつたまらん (蜀山人)


祈とうやまじないの奴隷から  
解放させてくれる生活力こそ 
ほんとうの現世利益である


延命を 祈る間も 減るいのち

腹たたば 鏡を出して 顔を見よ
   鬼の姿が ただで見られる



そのうち
  お金がたまったら、    
そのうち   時間にゆとりが  できたなら、
そのうち  そのうちと              
できない  理由を 並べていたら
とうとう    何にも   しなかった    

そのうち  人生の幕が  むなしく降りる
あの道    この道  日が暮れる    
今来た    この道  帰れない       (相田みつを)


ほんとうは、もっと長い詩ですが、掲示板用に短くしてあります。
詩のこころが曲がったかもしれません。(相田さん、ゴメンナサイ)

<PS>  みつけました、ホントの「そのうち」の詩

                そのうち      
         そのうち    お金がたまったら
         そのうち    家でも建てたら
         そのうち    子供から手が放れたら
         そのうち    仕事が落ちついたら
         そのうち    時間のゆとりができたら

         そのうち……
         そのうち……  
         そのうち……  と、
         できない理由を
         くりかえしているうちに
         結局は何もやらなかった
         空しい人生の幕がおりて
         頭の上に  淋しい墓標が立つ

         そのうちそのうち
         日が暮れる
         いまきたこの道
         かえれない
ひとつ前へもどる(現在地「おや、もう、こんな時間?」からきた場合)

良いことを しようと思えばできる
悪い
ことを  すまいと思えばやめられる
これを  思い上がりという


はい、思い上がってました

食わねば 生きられぬ
では、
食っていれば 死なぬか


いえいえ 、食べていても、死にます

人生の栞
 人間の死亡率は?  へリンク

そうだよ。人生にもともと意味なんてないよ。

だから、
あんたが人生に意味をプレゼントすればいいじゃない

『ブッタとシッタカブッタ3』(小泉芳宏著)の中の言葉
なんだか、肩の力を抜いて生きていける言葉だと思います
さらに、この本の終わりに次のような文がありました

   人生に意味がないということは
   あらゆる意味を持っているということ

   意味がないことを知ったら
   意味をプレゼントすればいい

   いつでも意味がないことを知っているから大丈夫
   意味がないことを体で覚えないと
   自分でつくった意味にふりまわされる


うちの商店会では、
『失敗』と書いて、『経験』と読むんだ。
つまり、失敗をしないということは、
経験を積まないということ


      『五体不満足』乙武洋匡著 の中で早稲田商店会会長の安井さんの言葉
石につまづいたら、つまずいたその石を踏み台にして、もう一段 高く上がればいい
仏教は、つまづいたら つまづいたことを明らかに見つめ、引きうけていく教えです。
それを言い替えてあるような言葉です。

ちなみに、同様の言い替えを新聞記事
で見つけました

どんな国にも企業にも、いろんな問題がある。
「それを指摘する際にプロブレムと言わず、チャレンジと言いなさい。」
英語を母国語とする人はよく日本人にこう忠告する。……
克服すべき問題を「挑戦」という意味を持つ単語を使うと話が否定的になりすぎず、
前向きな勢いが出るから不思議だ。
 日本経済新聞(平成12年8月5日付)の「春秋」欄

ガンの告知を受けた人が、死の宣告をされたと悩み恐れる
しかし、人は皆、生まれた時に死を宣告されているのだ

目から鱗が落ちました。
あるお寺の行事案内にあった言葉です。
この文に続いて、
死を避けて、ごまかして生きているから、死ぬのだと知ったとき悩み恐れるのだ。
そこで念仏に遇えればよいが、平生に遇っていなければ心もとない。

とありました。


ともすれば 二度のお礼も 欠くるなり
三度の箸は 忘れざる身も


この歌は、先年 西楽寺の報恩講に来られた清岡隆文先生が教えて下さいました。
「二度のお礼」とは、朝夕にお仏壇にお参りし、如来さまにお礼をすることです。

ところが、これがなかなか難しい。
朝は朝で忙しく、夜は夜で気がつけばフトンの中。

でも、朝・昼・晩と「三度の箸」、つまり自分のお腹を満たすことは忘れません。
なぜでしょう?。

答えは一つ。自覚症状があるからです。反対に自覚症状のないことは、忘れます。
自覚症状のないことを続ける方法もただ一つ、<習慣づけること>だそうです。
朝ご飯の前に顔を洗う習慣がある私たちは、洗わずにご飯を食べるのは気持ち悪いものです。

同様に、「仏さまにお参りしないで箸を持つと、どうも落ち着かない…。」
こんなふうになれば、しめたものです。


隣りの
家に 蔵が建てば
わしの心に 腹が立つ


う〜ん、他人のよろこびを いっしょに喜べない私です
反対に、他人が不幸な時は…。
ひらがな法話 「みんな うちの子」へ



他人(ひと)の悪口は ウソでも 面白い
自分の悪口は 本当でも 腹が立つ


図星 だから 腹が立つんですね
阿弥陀さまの光にあえば 本当の自分が知らされます
だから、なかなか お念仏の教えは 耳が傾けられないのです


田があれば 田に悩み、家があれば 家に悩む。
牛馬などの家畜や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、
あればあるにつけて 憂いはつきない。
… … … … … …
また、田がなければ 田をほしいと悩み、家がなければ 家がほしいと悩む。
牛馬などの家畜や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、
なければ ないにつけて、また それらをほしいと思い悩む。

たまたま、ひとつが得られると、他のひとつが欠け、
これがあれば あれがない というありさまで、
つまりは、すべてを取りそろえたいと思う。

そうして、やっと これらのものが みなそろったと思っても、
それは ほんの束の間で、すぐにまた 消え失せてしまう。 (仏説無量寿経)


西本願寺刊 「浄土真宗 聖典ー勤行集 」にある<まことのことば>にある 仏説無量寿経の現代訳です。
ある法事の席で 拝読したら、若い(?)方が、「うまいこと 言うなぁ」と 思わず 口にされました。
そりゃぁ、「うまい」ですよ。お釈迦さまの真実の言葉ですもの。