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放言御免hougen-gomen

親鸞さまの門徒


私たち浄土真宗では、「檀家」とは言わず、「門徒」という。その門徒が所属するお寺を師匠寺(所属寺)という。

しかし、西楽寺のある石見(東部)地方では、所属寺の門徒である前に、「親鸞聖人の門徒」であるという伝統がある。

だから、所属寺も大切にするが、通常は自分の住居地区内(地元)にある寺院(ここでは「地元寺」と呼ぶことにする)の法座・行事を通して、ご縁(教え)にあう。
(※所属寺と地元寺が同じで あれば 問題はないのであるが…)

したがって、お寺の組織である婦人会や壮年会・子ども会等への加入は、所属寺の会ではなく、地元寺の会に入って活動する。

つまり、西楽寺のある温泉津地区に住んでいれば、他寺のご門徒であっても、西楽寺の婦人会に入会して活動して下さるのである。
反対に、他地区のお寺の婦人会に、 西楽寺のご門徒が加入して役員をされる場合もあるわけである。

仏事に関しても同様である。命日や七日参りなど通常の仏事には、温泉津地区に住んでいらっしゃれば、西楽寺のご門徒でなくても、私がお参りをさせていただく。

その代わりに西楽寺のご門徒であっても、他地区に在住ならば平常のお参りは、その地区のお寺の住職がお参りして下さる。
そして、報恩講・法事・葬儀等の主要な法要では、それぞれ所属寺(師匠寺)がお参りし、その際には地元寺の僧侶も案内を受ける。

こういうふうであるから、門徒数の少ない寺院であっても、それ相当の規模の本堂が必要となり、そのための募財は 地元に住む限り、門徒であるなしを問わず、応分の負担をして 支えて下さる。
もちろん、師匠寺に対しては所属する門徒としての勤めを果たした上でのことである。

しかし、車社会の到来で、その麗しい慣習が崩れつつある。歩いて1時間のところも、車なら10分である。その結果、歩いて5分という地元寺の利便性が、車で10分になった所属寺と 差異がなくなってきたためであろう。

すると、僧俗共に「うちの(お寺の)門徒」・「よその(お寺の)門徒」という狭い範囲の組織意識をもってしまい、今までになかった「隔たり」を感じるになったのは、残念な限りである。

思うに、 「門徒」などという制度は、 郵便局の口座と同じくらいに考えたらどうだろう。

つまり、所属寺とは、口座の印鑑を届け出ている局みたいなものである。だから、大切な手続きはその局でする。(=師匠寺)
しかし、口座(通帳)さえあれば、全国津々浦々どこの郵便局であろうと出し入れが自由であるように、(門徒であるなら)どこのお寺へも遠慮なく、自由に ご縁をもってお参りできる…のである。

「ワシの(寺の)門徒は…」と ご門徒を私物化したような言い方をされる住職や、
「私は その(お寺の)門徒ではないので、(そのお寺へは)お参りしません。」と言われるご門徒に出会うと 情けない気がする。

なぜなら、みーんな親鸞さまの(教えを聞く)門徒なのだから。放言御免