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ひらがな法話hirahou

負けの研究


プロ野球阪神タイガースの督になられた野村克也氏は、ヤクルトの監督時代、決して強いとはいえないチームを何度も優勝に導きました。

その野村監督が、優勝するためにしてきたことの一つに、負け試合の研究があると言われます。
ふつうの監督は、どうしたら勝てるのか、ということを一生懸命考えます。

しかし、野村監督は負け試合を見つめ、負けた原因を徹底的に調べました。その結果、負けない野球を導き、チームは優勝したのです。
ところで、仏教では生きることと死ぬこと、つまり、生と死を別々に切り離してはとらえません。ちょうど一枚の紙の表と裏のようにたとえられます。表だけの紙がないように、裏だけの紙もあり得ません。

同じように、生きることと死ぬことは切り離すことはできません。
言葉の上でも、生と死を続けて書いて生死(せいし)とは読まず、生死(しょうじ)といいます。

勝つこととと負けることも、同じです。勝つものがあれば、必ず負けるものがある。これが勝負です。これまた、一枚の紙の表と裏のようです。

とすれば、野村監督の勝負に対する姿勢を、生きることと死ぬこと、つまり生死の問題に当てはめてみるとどうでしょう。

われわれは、勝つことにとらわれるように、生きることにとらわれて、死という事実からは目を背け、逃げてばかりいます。しかし、これでは、勝つことだけを考える勝負といっしょです。

死という逃れようのない厳しい現実から目をそらすことなく、死をごまかすことなく、しっかり見据えていくとき、はじめて生きることが輝いてくるのです。

お寺や仏教といえば、すぐに死というイメージが付きまといますが、生を奪う死は、そのまま生きる意味を与えてくれるのです。

野村監督は、負けることを徹底的に見つめ、勝ち負けを越えたチームつくりをして、結果的に優勝しました。

仏教は、生きることと死ぬことを切り離さずに、死をしっかりと問題として、生死を越えていのちいっぱい生き抜く道です。

どうぞ、死の準備としてでなく、生きる糧として、お寺のご法座で仏法のご縁をいただいてください。