Life Navigation from Amida Buddha

文字サイズ

ひらがな法話hirahou

ほんとうの私


□■ タヌキでよかった □■

夜道を自動車で走っていたら、突然、道路わきから、タヌキが飛び出してきました。

慌てて急ブレーキを踏みましたが、間に合わず、『ドン』と鈍い音をたてて、はねてしまいました。やっと車が止まったのは、かなり行き過ぎてからのことでした。

『すまないことをした、タヌキは大丈夫だろうか』

現場に引き返そうと方向転換をしていると、ハンドル越しにタヌキをはねた時の手ごたえが思い出されました。石や木に当たったときの手ごたえとは違います。肉の塊をはねた時は、何ともいえない感触です。

『きっと、人間をはねたときも、こんな感じなのだろう…』

そう思った途端、背筋がゾッと寒くなりました。 そして、

『ああ、タヌキでよかった。人間だったら、大変なことだった。』
とホッとしました。

恥ずかしいことですが、人間もタヌキも一つしかない尊い命なのに、タヌキの命だと軽く扱うのです。もっと小さな虫なら、ひき殺しても気づかず、『悪かった』とも思わないのでしょう。恐ろしいことです。

自分にふりかかる責任や感覚で、命の重さにまで順番をつけてしまう私です。タヌキは裁判や訴訟で損害賠償を求めないのをいいことに…。

そして、人間でなくて良かったと思ったら、今度は、『かなりの音がしたが、自動車は壊れていないだろうか?』と、タヌキの心配より、まず車の心配です。どこまでいっても、自分の都合でしか考えられない私でした。

□■ お経を道具に □■

ようやく事故現場にもどってみますと、タヌキは道路の真ん中で横たえて目を閉じていました。

『ごめんよ、タヌキさん…』

夜の闇の中、ライトに照らされたタヌキを前に、車のエンジン音とともに罪悪感が私の中にひろがります。

『このまま放っておくわけにもいかない。どうしよう…。そうだ、私は僧侶だ。お経や念仏を称えることが出来るじゃないか!』

しかし、お経を読もうとしたのは、タヌキのためではありません。タヌキが恨みを持って、タタルのじゃないかという、私の不安や恐ろしさのためだったのです。

親鸞聖人は、お念仏やお経を自分の思いを満たすための道具にしてはならないといわれました。

そしてご自身も、衆生の利益のためにと『浄土三部経』を千回読もうとされて、『名号(南無阿弥陀仏)のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするや…』 (「恵信尼消息」)と思い返してやめられたといいます。

□■ 喜ぶときも… □■

さて、そのタヌキですが、数分後に突然、首をもたげ、ムクッと起き上がったのです。そして、クルッと向きをかえたと思うと、草むらへ小走りに逃げて行くじゃありませんか。

「生きていたぞ!タヌキが生きていた!よかった。」

と思わず車の中で歓声を挙げて手をたたきました。

でも、これまた残念ながら、私はタヌキの無事(右の後ろ足は引きずっていましたが)を喜んだのではありません。

タヌキが死んでないということは、私の罪が<タヌキ殺生罪>から、<タヌキ傷害罪>に軽くなった、つまり、タヌキの私への恨みが小さくなったと考えたからです。

□■ こんな私だからこそ□■

こんなふうに、心配することも喜ぶことも、そしてお念仏さえも身勝手な自分の都合でふるまうのが私です。そのくせ、「いいかっこう」をしたがります。

しかし、そんな私だからこそ放ってはおけぬと、心配し見守っていて下さるのが、阿弥陀さまです。

お念仏は、阿弥陀さまが、「ここにいるよ」と私の本当の姿を気づかせて下さるお喚び声です。身勝手な自分の思いを満たすための道具ではありません。

如来さまがかねてより、知り通して下さった私の「本当の姿」を、タヌキが身を呈して教えてくれたことでした。