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ひらがな法話hirahou

どの道も いっしょ?


たまに、こんな質問をされることがあります。

「どうせ 行きつくところ(目指すところ)は、同じなんだから、何宗であろうと、どの宗教であろうと いっしょでしょ!?」

この質問と同じ内容を歌に詠んで…
     分け登る 麓(ふもと)の道は 多けれど
     同じ高嶺(たかね)の 月を見るかな
という場合があります。

つまり、「頂上への登り道は いろいろあるけど、上がってしまえば 同じ景色が見えるんでしょ。」という意です。

しかし、ホントにそうなのでしょうか?残念ながら、この歌をよまれた方は、まだ、山に登る気のない(登ろうとしてない人だと思われます。何故かといえば…。

たとえば、西楽寺から一番近い 1,000m級の山である三瓶山(さんべさん)に登るため、もよりのJR大田市駅からの道を考えてみます。(三瓶山までおよそ 32 km)
※ここでいう「道」とは、どうやって登るか、という「手段・方法」とします。

その道(手段・方法)は、いく通りもあります。
① ここ(大田市駅)から三瓶山まで 徒歩で登る方法
② 自転車を借りて それに乗っていく方法。
③ 自動車を借りて それを運転していく方法。
などなど…。

どの道(手段)でも いっしょですか? では、アナタが 登るとしたら…?

① → とても、歩く元気はありません(不可)
② → 自転車は乗れますが、 坂道は足腰がもう無理です(不可)
③ → 運転免許 ありません(不可)

さあ、どの道にします?
「どれでも…」とは、いえませんよね…。

そうそう、
④ ヘリポートに 用意されたヘリコプター(操縦士付・無料)に乗せてもらい、あっと言う間に三瓶山到着という方法(道)

もありますが…    (註=たとえ話です。実際はありません)となれば「ああ、私には ④ の道しかありません」となりませんか。

そういう意味で、「どの道もいっしょ」、という人は「まだ 登る気のない人」といったのです。「わたしが 登るなら…」となれば、「どの道でも…」という訳には いきません。(もちろん、何でもこなす 万能のお方は別ですが)

ここで親鸞(しんらん)さまについて いえば、最初は 比叡山で、難行・苦行を修めて 善根を積んで仏になる教え(道)を進もうとされました。

しかし、ちょっと よいこと(善)をしても、それに対してお礼を言って(見返り)もらえなければ 腹をたて、修行を積んでも その行を 「修行してないものを見下げる道具」にしてしまう自分には、不可能な道である。と、止められます。

そして、「善根も修行もできない アナタだからこそ ほうってはおけない…」と私のことを 仏さまの方から 照らしつつんでいてくださる阿弥陀さまのお念仏の道を選ばれました。
つまり、「どの道でもいっしょ」から 「私にはこの道しかない」となったわけです。

さらに、その道は 1度(同時に)に、2つも3つも歩むことはできません。
私の歩むことのできる道はただ1つです。

今、ここでは 東京から京都・本願寺までの道(ルート)で考えます。もちろん、京都までの道はたくさんあります。

[1] 東海道新幹線で直行するルート
[2] 飛行機(羽田→伊丹)・リムジンバス(京都行き)乗り継ぐルート
[3] JR(在来線)で 青森(東北本線)経由で日本海回り(北陸本線)のルートなどなど…。
もっといえば、
[4]飛行機で アメリカ・ヨーロッパ・インドを経由するルート
だって 京都へ行けます。

しかしながら、私の歩む(選ぶ)ことのできる道は1つです。
頭部は[1]で、両手は[2]、胴体は[3] で、両足は[4]のルートで行くというわけにはいかないのです。

ですから、ほんとうに道を進もうとするとき、「どの道でもいっしょ」ではなく、「私には この道しかない」のです。