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ひらがな法話hirahou

闇(やみ)


仏教では、迷いのことを「闇」にたとえます。

ところが現代は、その暗闇を実感することがとても難しい時代になりました。

部屋の電気を全部消しても、温泉街にある我が家は、通りの街灯が明るく部屋の中に差し込んできます。

夜に町中が停電しても、瞬く間に復旧します。

ですから、闇夜の長い時間の停電か 洞窟の奥底にでも入らなければ、本当の真っ暗闇を経験することができません。

さて、何年か前のことです。台風の夜に停電がありました。

その時は、めずらしくなかなか復旧しないので、とうとう、ローソクをとりに お仏壇の部屋まで いくことにしました。

さあ、ところがこれが大変です。

どれほど住み慣れた勝手知ったる我が家といえども、全くの闇の中では、そろりそろりと「手探り・すり足」です。

まるで泥棒が宇宙遊泳をしているようなものです。

「えっと…たしか、ココに段差があって、この柱の次を…」と来たところで、何かにつまづいて、ズテンっと転倒してしまいました。

「痛たたた…(何だろう)…痛い…」というところで、パパパッと停電が復旧、電気が点灯しました。

見ると、明かりの中で、私が躓いた灰皿が割れていました。そして目指していた 蝋燭がある戸棚はすでに、1メートルほど通り過ぎていました。

これが、明かりが点いたときなら、灰皿につまづくこともありません。段差も平気で超えられます。

もちろん 目的地を行過ぎることもありません。

ところが、闇のなかでは、段差におびえ、障害物を恐れながら、不安とともに歩みを進めなければなりません。

そういう意味で、先祖や霊のタタリにおびえ、占いやまじないなどで誤魔化しながら、おそれと不安に生きる姿は、まさに迷いの闇の中です。

しかし、真実の教え=仏さまの光=にあうとき、ちょうど電灯が点いたように、段差も障害物もきちっと見据えて前を向いてあるいてゆくことができます。

それは段差や障害物がなくなることではありません。

強く、賢く、立派な人になることでもありません。何も変わっていません。

段差や障害物があるまま、つまり、弱く、おろかにしか生きられいまま、大切なかけがえのない人生を 引き受けていけるのです。

そして段差や障害物が照らし出され、知らされるとき、自分もまたすでに仏さまによって照らされる光の中にあったわけです。

※ オマケ
停電していない明るい場所で、停電したときと同じ状態の手探りすり足の宇宙遊泳をしたらならば、きっと 本人はとても恥ずかしく、周りは笑ってしまうでしょう。

でも、闇の中では恥ずかしくはありません。それどころか、本気・大まじめでしたもの。

「日柄がよくない」と かけがえのない人生の今日の日を先送りし、先祖供養をしないと霊がタタルとおびえたり、根拠のない占いなどに振り回される姿が、まさにそうなふうに写ります。

真実に出あえない人は大真面目で、これが本当だと思っていますから…。