ひらがな法話

「これまでが これからを 決める」 のではない。
「これからが これまでを 決める」 のだ (藤代聡麿)

これは、京都・東本願寺の門前に掲示してあった言葉です。

通常は、「これまでが、これからを決める」と考えます。過去・現在・未来という時間の流れからもそう思います。
実際のところ、「これまで」のことと無関係な「今」も「これから」もあり得ませんし、「これまで」のことは、決して変えることも消すこともできません。

だけど 「これからが、これまでを決める」のです。

「これから(の生き方)が、これから(の意味)を決める」と言葉を添えると、味わいやすくなります。

たとえば、石につまずいて倒れたとき、「どうして、あんなところに石があったのだろう…。」、「あの石がなれければ 順調だったのに…」と愚痴のタネにすることがあります。

反対に 「あの時、つまずいたから、足もとに気をつけるようになって、大きな失敗をしなくてすんだ」と つまずいた石を 踏み台にしてステップアップする生き方もあります。

つまり、「これからが これまでを決める」とは、失敗したことも、思い通りにいかなかったことも みんな無駄ではなかった、自分には必要なことだったと「これまで」(過去)に意味を見出し、引き受けていくことでしょう。

変えることも、消すこともできない「これまで」(過去)は、「これから」の生き方次第で、その意味が大きく変わるわけです。

 

では、こ「これからが これまでを決める」という言葉を、人生の最後、いのち終わる臨終の場面に当てはめてみたなら、どうでしょう。

つまり、「死んだらどうなるか?」ということ(これから)が 、それまで生きてきた自分の全人生(これまで)を 決めることになります。

すると、いのち終わった後(これから)が、「死んだら、おしまい」、「死ねば、すべて消えてなくなる」という人の人生(これまで)は、全く意味のない、空しいものとなります。

なぜなら、どれほど「楽しかった。いろんなことをやった。アレもした、コレもした」と言ってみても、最後は「消えてなくなる」わけですから。

 

では、どうすれば、空しく終わることのない人生になるのでしょうか。

私たち浄土真宗の門徒は、この いのちの行方、死んだらどうなるか…ということを「後生の一大事」という言葉を用いて 仏さまの教えをたずねてきました。

後生の一大事を南無阿弥陀仏のこころを通して受け取る人生は 「死んだらしまい」ではありません。この世の縁が尽きるままに 仏さまの世界に生まれさせていただくと お聞かせいただきます。

死んだら「おしまい」ではなく、死ぬことのないいのちの「はじまり 」なのです。
生を奪う死という事実を そのまま 死ぬことのない いのち(無量寿)を頂くご縁と受け止めます。

 

 

いのち終えた後という「これから」が 定まるとき、 「これまで」、つまり 人生そのものに 生きる意味が見出されます。

山道、坂道いろいろあったけど、あの道を通ったから、ここまで来れたのだ。泣いたことも、笑ったり、  も すべて 無駄ではなかったと引き受けていける道が開かれてゆくのです。

 

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