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他力本願 について

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(引用元のサイト管理者様には、ココへの転記を許可いただいています。)

■ 「自力」「他力」って何のこと?

by 鸞らんクラブ 「親鸞さんと生きる」 23

「自力」とか「他力」とかって言葉を聞いたことがあるかもしれないね。これは仏教言葉だから、鸞クラの趣旨としてはなるべくそんな言葉を使わないで、親鸞さんの話しをしたいと思ってるんだけど、でも「自力・他力」ってことばは有名すぎるから、逆に「どういう意味?」って聞きたい人もいるんじゃないかと思うんです。

例によって、とりあえず超かんたんに説明しますね。

この二つは、僕らが「本当の幸せ」になるための二つの方法のことです。ですから、「本当の幸せ」になりたくない人には、まったく用事のないことばです。

(ちなみに、プロ野球や相撲などの優勝争いなどで、「他力本願ではいけませんよね、自力本願でやってほしいですね~」などと言ってますが、あれってすごくヘンです。第一「自力本願」なんて言葉はありません。本願はすべて他力です。)

念のために「本当の幸せ」って何か、ちょっとだけ・・・ 「本当の幸せ」ってのは、みーんなでいっしょに「よかったね――」って喜べることです。反対に 「ウソの幸せ」ってのは、自分一人で自己満足して、他の人が泣こーがわめこーが知らんぷりってやつです。

(もっと知りたい人は「ボソボソっと話し」(←鸞らんクラブ内のコンテンツです)の「しあわせ・・・3種類」って文章を読んでみて!)

さて、まずは親鸞さんジキジキの言葉から・・・

(僕らのことば訳=J-shock)
「自力っていうのは、幸せになりたいって人が、幸せにしてくれそうな仏さん(もちろんアミダさん以外の)の名前を称えたり、『こんなことしたら幸せになるんでないかなー』と思うよい事をイッパイがんばるということです。

そうやって自分が『一生懸命がんばってます』ということで幸せになろうということです。
それはちょうど、服の破れを針と糸でつくろってきれいに直すように、自分の行いや心の悪いところを、つくろってきれいにしようとすることです。

そういう方法でがんばれば、いつかは本当の幸せになれる、という考えが自力です。」

つぎ、他力ね。
「他力っちゅーのは、(イヤ失礼(^_^;))というのは、アミダさんが僕らにかけつづけて下さってる願いの心≪人間たちが本当の幸せになれないのは、いつも自分自身の思いに執着して生きているからです。

お互いが相手の存在を尊重し支え合うことによって、本当の幸せを見つけてほしいんです≫を聞いて、そこから自分の現実をもう一度ふりかえり、『今のオレってやっぱ、そうなんかなー』と自己分析をし、どう行動することがアミダさんの願いに応えることになるんだろう、って考えさせられることです。

そうやって、アミダさんの願いを自分が生きるうえでのより所にしようというのが他力です。」

そうとうJ-shock流の訳になってしまいましたが、親鸞さんの手紙の一文です。
親鸞さんの言う「悪いところをつくろってキレイにして(原文は『みだれごころをつくろひ、めでたうしなして』)」という言葉についてもう少し。

たとえば洋服がやぶれると、針と糸で繕うでしょう?するとその部分はキレイになる。で、また他がやぶれるとまた繕う。たとえ100ヵ所やぶれがあったって、一つひとつ繕っていけばいつかは全部キレイになるわけです。

ところが、こんなことってないですか?イヤイヤ・・・だいたいこのごろは、服の繕いもの自体しないのかもしれないね。すぐに新しいの買っちゃうもんね。

でも僕らが子どものころは服のツギアテなんて普通だったもんね。とくにズボンのひざなどしょっちゅう破れるんで、よく似た色の布を当ててミシンでガーガー縫 うんです。

ところが、そう、ここでさっきの「ところが」なんですが、なんべんもツギしていると、ツギした直後から、そのツギの隣が破けてくるんですよ。もっと大きな 布当ててガーガーやるんですが、またしてもその横が破けてくる。そうなんです。もう布自体が弱ってしまっていて、「破れてあたりまえ」の状態なんです。

親鸞さんが言いたいのはそこなんだろうと思うんです。繕いができるあいだは、まだ布地がしっかりしているという事なんです。でも、布地自体が弱ってしまっていては、繕うということ自体が不可能なんです。

僕らの心、そしてそこから出てくる行為。そのすべてが、すでに完全に弱りきった布地ではないかと。「愚かさ」という弱り方をした僕らの心は、つぎつぎと「罪悪」という破れた行為を繰り返しているんじゃないでしょうか。

自己中じゃない人間なんていないですよね。どんなに好きなパートナーとでも、どんなに大事なわが子とでも、僕らはやっぱり自分を離れてはものごとを考えら れません。

自分以上に相手の身になるということは不可能です。それが人間という僕らの正体だろうと思います。情けないほど弱いですね。「破れてあたりま え」状態なんです。

で、それなのに、「私は少しずつでも努力すれば、いつかはキレイな心になれるはずです」ってがんばっている人を、「自力」(自は自分の自。力はチカラ、働き、たよれるもの。つまり、自分の働きを頼りにして幸せになろうということ)と言ったのです。

それはつまり、「破れてあたりまえ」状態の自分の現実を知らない人、ということになります。「自分はできる」「少なくともアイツよりはできる」というウヌ ボレも出てきそうです。

そういうのを親鸞さんは「善人」、「疑心の善人」などと呼んでいます。「疑心」というのは、アミダさんのはたらき(願い)を疑って いるということです。(そうそうちょうど、今月(2001年3月)のGowasan(←鸞らんクラブ内のコンテンツです)がそれです。)

「他力」の他は他人の他ではありません。仏が僕らを幸せにしたいという働きを「利他力」といいます。つまり他を利する(利益する=幸せにする)力=はたらき、です。その利を省略して他力です。ですから、他力の他は、僕らのことなんです。

僕らが本当の幸せを求めようとするとき、どういう生き方が必要なのか、そのへんから少し考えてみませんか?
わかりにくいところがあったら、何でも聞いて下さい。歓迎しますよ(^.^)/~~~
上記「自力」「他力」って何のこと?は、鸞らんクラブ >もくじ> 親鸞さんと生きる >「23」 より、引用・転記させていただきました。
鸞らんクラブ さんは、福井県・光寿寺さんのサイトですが、その中に 「ゴチャゴチャ専門的なことは抜きにして、ホント大事なことだけ」の辞典、鸞クラ辞典があります。ONSAIが目指す「仏さまの教えをひらがなで お伝えする」ことの先輩のようなサイトです。

 

■ 他力本願って何?

by本願寺HP 『他力本願』リーフレット

めぐちゃん 「ねえ、ねえ、お父さん。他力本願ってなあに?」
父さん      「なんだ、むつかしいことを聞くなぁ。そんなこと、他人まかせにしないで、自分で調べなさい」

めぐちゃん「あっ、あった。他人の力をあてにすること…」
父さん      「そっ、そうだよ。他人まかせにすることを、〈他力本願〉っていうんだよ。世の中、何でも自分で努力しなくっちゃ。他人の力をあてにするなんてダメなんだ!」

めぐちゃん「でも、もう一つ意味があるよ。仏さまの力…って」
父さん      「ああ、そんなこともいうなぁ。おまえも受験するときは、ちゃんと合格祈願にいかないとなぁ。実をいうとお父さんも、宝くじを仏壇にお供えしてるんだ」
めぐちゃん「それって他人まかせじゃないの~」

じいちゃん「おいおい、おまえさんたち、願い、願いって、自分たちの願いのことかい。〈他力本願〉っていうのは仏さまからの願いなんじゃよ」
めぐちゃん 「ええっ、仏さまの願い?」
じいちゃん「そうじゃよ、仏さまはすべての人を、必ず救いたいと、願われているんじゃよ」

めぐちゃん「すべての人って、私のことも?」
じいちゃん「そうじゃよ。おまえのことじゃよ。迷っている人を必ず救うというのが仏さまの願いなんじゃよ」

めぐちゃん「ふ~ん。でも、私、迷ってなんかないわよ。迷いってなあに?」

じいちゃん「ワシらの願いは、かなわなくても、かなってもキリがないんじゃ。それを迷いというんじゃよ」
めぐちゃん「へ~ぇ、お父さんはどう思う?」
父さん    「そうだなぁ、願いにキリがないっていうのは分かる気もするけど、自分ではなかなか気がつかないよな。なあ、母さん

母さん     「そうねぇ、でも、気がつかないっていえば、朝日が差し込んでいるところだけにホコリが舞っていてビックリすることがあるでしょ。
何もないと思っていても、光に照らされて、初めて見えてくる、迷いってそういうものじゃないかしら」
めぐちゃん「私、いつもお掃除してるモン」

じいちゃん「ハハハ、掃除のことじゃないよ。仏さまの願いに照らされて、ホコリだらけの自分に気づかされるんじゃよ」
父さんめぐちゃん 「ホコリを照らす光かぁ」

                      浄土真宗本願寺派 親鸞聖人鑚仰会総連盟作成リーフレットより

上記「他力本願って何?」は、 本願寺HP >トップページ>◎新着情報・お知らせ◎ 8/9 『他力本願ってなあに?』 より、引用・転記させていただきました。
「他力本願って何?」は、本山・伝道部(親鸞聖人鑽仰会総連盟事務局)でマスコミ向けに作成された、A4サイズ四つ折りのリーフレットです。裏面には、 下のような「他力本願」と題した解説文が掲載されています

「他力本願」
「他力本願(たりきほんがん)」という言葉は、浄土真宗において、み教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)がいわれた「他力」とは、自然や社会の恩恵のことではなく、もちろん他人の力をあてにすることでもありません。
また、世間一般でいう、人間関係のうえでの自らの力や、他の力という意味でもありません。「他力」とは、そのいずれをも超えた、広大無辺(こうだいむへん)な阿弥陀如来の力を表す言葉です。

「本願」とは、私たちの欲望を満たすような願いをいうのではありません。阿弥陀如来の根本の願いとして「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)を信じさせ、称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓われた願いのことです。
この本願のとおりに私たちを浄土に往生させ、仏に成らしめようとするはたらきを「本願力」といい、「他力」といいます。

私たち念仏者は、このような如来の本願のはたらきによる救いを、「他力本願」という言葉で聞き喜んできたのです。ここにはじめて、自らの本当の姿に気づかされ、いまのいのちの尊さと意義が明らかに知らされるのであり、人生を力強く生き抜いていくことができます。

 

■ 他力本願の非常識

by おみじょ Web 「真宗の非常識」

球・サッカー・バレーボール、いろんなスポーツが盛んですが、優勝争いが佳境に入ると、よく耳にするのが「他力本願」という言葉。しかし、いつも浄土真宗の教えを侮辱するような非常識な使い方で、聞くたびにがっかりします。

「自力優勝の術はもうなくなった。他力本願に頼るしか道はない」なんて発言が代表的な例。残り試合の関係で、いくら頑張って勝ち続けても、相手が負けるのを待つしかない、「他人まかせ」という意味でしょう。

自力=自分の力、他力=他者の力という普通によく言われる解釈からの発想でしょうが、これが全くの間違い。下に「本願」がついている限り、断じて「他人まかせ」と受け取るべきものではないのであります。

自力・他力を正しく理解するために、まず「力」=「願い」と受け取ってみましょう。それから、「自」=自分を含めて迷いの「人間」、「他」=迷いの他のもの、つまり「阿弥陀如来」とするとわかってきます。

◎自力=自分の願いをかなえようとする事。
◎他力=阿弥陀如来の願いを受け止める事。

つまり自力とは自分の身勝手な願い事をかなえるために方策をたてることで、一般に誤用されている他力=他者の力は、困った時の神頼みも含めて、本当はこの自力の方に入ってくるものです。

そして本当の他力の意味は、そうした身勝手で本当の生き方ができない私達にかけられた如来の願いのことなのです。ずっと迷いっぱなし の、救われようのないお前達だからこそ、私が救わねば誰が救おうか。どうぞこの私に救われて下さいという尊い願い。これこそが阿弥陀如来の本来の願い=本 願なのです。

けれども他力と本願の本当の意味を知らない人は、他力本願=「他者の力に私の願いをかけること」と、字義的に誤解しやすいのです。

よって努力至上主義の現代日本人が、「そんな他力本願的なことではいかん。もっと自分で努力を」といったことを平気で言ってしまうわけですね。時には「自 力本願」というとんでもない造語も飛び出す始末。

「他力といふは如来の本願力なり」と親鸞聖人がお示しになったように、罪悪深重の凡夫(私)を救わんがための誓いに目覚め、他力本願 に生かされてこそ、真に自立した人間となることができます。その積極的な生き方を「他人任せ」などと正反対に誤解されるのは全く残念なことです。

優勝させたり、病気を直したり、大学に合格させたりなんて自分勝手な願いは、決して他力とは申しません、本当は。

上記「他力本願の非常識」は おみじょ Web >トップページ>真宗の非常識>他力本願 より、引用・転記させていただきました。
おみじょ Web は、1992年創刊の広島地域で無料配付される季刊の浄土真宗聴聞情報誌『おみじょ』のWeb版です。「おみじょ」とは、「おみのり(教え)のじょうほう(情報)」の略だとか。「真宗の非常識」は他にたくさんのテーマに沿って 詳しくかかれている ONSAI オススメ コンテンツです。

 

 

■ 他力とは心の目が覚める事

by 眞光寺HP 「掲示伝句についての法話」

自力とは 自分に酔うこと
他力とは 心の目が覚めること

「自力」に「他力」とは本来、浄土真宗の教義の根幹を示す専門用語ですが、ここでは少し拡大解釈して話を進めていきます。つまり、

★ 自 力・・・自分を過信すること。
★ 他 力・・・自分に謙虚になれること。

世間ではすでに「他力本願」という語を「棚からボタ餅」と同じ意味で使われていますが、これは大きな間違いです。自分が努力しなくてもよい、という意味では決してありませんのでご注意を。

他力とは、阿弥陀如来への正しい帰依によって授かる仏の力(本願力)です。それを「目覚め」といってもよいでしょう。

一方、自力とは『白い巨塔』の財前教授のような自分の能力に酔ってしまう状態を言います。

他力は阿弥陀如来が私たちの驕り(おごり)や自己中心性を厳しく批判して、正しい方向に導いていく力を意味します。

おそらく浄土真宗はあらゆる宗教の中で、最も自分の本性を見つめて反省する教えです。世の中で最も恐ろしいのは節分の鬼でもなくテロリストでもない、私自身の心なのです。

 

「何を大げさな事を言うのだ、自分の心は違う」と思われるでしょうが、その態度がまさに【自分に酔う】ということなのです。
引用もとの真光寺様のサイトはリニューアルされて、上
記「他力とは心の目が覚めること」は 新しいサイトでは掲載されていないようです。

 

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