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宗教shuukyou

ここは、他のサイトから テキストのみを ワープして立ち読みするコーナーです
(引用元のサイト管理者様には、転記許可いただいています。)

願いを叶えてくれる宗教が正しい宗教ですか?

y 浄土真宗やっとかめ通信 「本物の宗教って何?」

宗教活動が、他の活動と根本的に違うのが「求める心の真偽」にあります。

例えば、あなたが買い物に出かけたとします。当然「欲しい物が何か」は買う側が決めます。売る側はそれに応えるか購買欲をそそるように誘導するだけで す。決して「本当にそれが必要ですか?」などと聞く店員はいません。

また、情報の入手にしても、知りたい情報は入手側が決めれば良い訳です。その他、旅行 にしろ、スポーツにしろ、食事にしろ、選択する側の要求は基本的に「正しい」ものとして扱われています。

しかし、こと宗教に関して、この構図をそのまま当てはめる訳にはいきません。正しく言うと、この構図を当てはめただけの宗教は、本物の宗教ではないのです。

たとえば、ここに大学受験をひかえた人が居るとします。彼は勉強するだけでは不安なので、合格の力添えをしてくれそうな神仏に手を合わせに行ったとしま す。さて、本来大学に入りたいという要求は間違ったものではありません。しかし、それを宗教に求めた時、要求が偽物に変わってしまいました。

受験は勉強することを促し、勉強の成果で合格するのです。そこに宗教の後押しを求めたら、その祈りは「私だけを有利にして下さい」という不平等を宗教に押し付けるに外なりません。

こんな要求があった時、本物の宗教なら「受験の合否に迷わず、勉強に打ち込みなさい」と、指導するでしょう。自分のしたい事、すべき事を行う以外に道はなく、勉強は出来るときにしなければ機会が失われてしまいます。

また交通安全や災害除けを祈願するのも道理に合わない話で、本当にこの願いが叶うのなら、交通事故も災害も起こらないという事になってしまいます。そん な事は、祈願する人もまさか信じてはいないはずです。信じていたら事故の度に宗教者が訴えられてしまいます。

もし「祈ることで安心する」というのなら、む しろ「交通事故に遇うかも知れないからスピードを落とす」「天災は忘れたころにやって来るから気をつける」と、気を引き締めていたほうが、どれだけか利益があります。

それでも「まだ世間に知られてないから」とか「この場所で祈れば絶対叶う」と、説明する宗教があります。ならば全世界の人々の要求があっても叶うのでしょうか。大抵の人の願いが嘘を承知の上でしていたり、不合理なまやかしであることが分かります。

これでは自分たちに都合の良い事柄だけの祈りであり、美名に隠れた自己満足です。そしていずれも「満たされない要求」と分かる日が来るでしょう。

大抵の人はこのように、自分の希望を代弁してくれそうな宗教を信じるだけで、それが欲望の根源だと気付きません。本当の安心というのは「事故や天災には遇うかも知れない、しかしそれでも救われる道がある。

いや、苦があるからこそ本当の救いにあえるのだ」と受け止めてこそ得られるのです。

本物の宗教はこうした「真実で普遍的な願い」を持っています。そうした願いに照らされて、自分の要求が果たして正しいものなのかどうか問いかける、つまり「願いが叶うことが本当に大切なことなのか」と、まず自己を見つめなおす行為が宗教の原点の作業なのです。

 

※ 引用元の 浄土真宗やっとかめ通信 は、東海教区仏教青年連盟のサイトでしたが、閉鎖されたようです。多数のスタッフで運営されているだけあって、内容も多彩で充実。各部門ごとに担当者がしっかりと対応されていて、その上に「多数」による「弊害」も見受けられず、頭の下がる すばらしいサイトでしたが、残念ながら、現在は閲覧できません。

上記「願いを叶えてくれる宗教が正しい宗教ですか?」は  浄土真宗やっとかめ通信 > 本物の宗教って何? > 宗教を考える100の質問 > Q.10 「願いを叶えてくれる宗教が正しい宗教ですか?」 より引用・転記させていただきました。

 宗教ってなあに

by ポチの人生ひとり言 「ポチのひとり言

あなたにとって、かなめの教えのことです。
それは、宗教法人法に適用されているかいないかは関係ありません。

あなたの人生にとって一番たいせつな教えが、あなたの宗教です。宗という字を辞書で引くと「おおもと、かなめ」と出てきます。それが宗教です。

いま、色々の新興宗教や、倫理団体が、家の宗教と両立できる。もしくは我々は宗教団体ではないといって勧誘をすすめていますが、かなめの教えがその人にとって二つも三つもあるはずがないのです。かなめの教えが二つあればそれは両立などありえないのです。

あなたが自分にとってすばらしいと思われる教えがあるならば、他の教えをすてて下さい。
それは宗教法人法に適用されているかいないかは、まったく関係ありません。ただし、宗教は生きていく為の教えでなければなりません。

己れの心の中を見つめなおすことが出来る教えでなければ宗教の意味がありません。占い祈祷に熱中したり、修行のようなことをしたり、倫理道徳感を高めて、じぶんが他の者よりすぐれているといった勘違いを勧めている教えは聞くに値しません。

かぎられた条件の者だけが死後にすばらしいことがあるなとどいったことをうりものにしている教えは論外です。気を付けて下さい。

※ 引用元サイトの ポチの人生ひとり言  すでに閉鎖されて現在は閲覧できません。 年齢・性別不明の「隣野ポチ」さんが綴られる 宗教学、仏教学、真宗学を修めた上で、ナマの生活に届くように「念仏の道」は 思わず、「!」というふうに相づちを打ってしまうサイトでした。残念です。

上記「仏ってなあに」は ポチの人生ひとり言 >ポチのひとり言>宗教ってなあに より、引用・転記させていただきました。

 

Q 宗教の目指すところはみんな同じだと言う人がおりますが・・。

そんなことを言う人がおりますか…。

ということは、「天声」とやらで足の裏を観て金をまきあげる宗教や、ミイラになっても生きていると主張し、私の身体には血が流れていないと言う定説教祖の宗教と、仏教や浄土真宗の目指すところも同じということになってしまいます。

私は全然違う気がするのですが…。

私なりの宗教観ですが、本物の宗教とは「普遍の真実」によって自他が明らかになるものだと思っております。逆に偽(にせ)の宗教とは自分の欲を満たす手段 としてあるもの、あるいは教祖たちの思い込みや都合によって教義が変わってしまう宗教を言います。普遍性のない「天声」や「定説」「神のお告げ」などを持 ち出す宗教は偽の宗教です。

このような宗教に入信する人には相当の事情があることと思いますが、一般的に気軽に入信しやすいのが病気治しや金儲け・受験合格・人間関係改善などの欲を満たす手段としての宗教です。

お正月の初詣はどこへ行かれました?。
御利益を目当てに自分の宗教と関係ないところへ行っている人はすでに我欲を満たす宗教への入信過程を通過中です。ご注意下さい。

「本物の宗教とは『普遍の真実』によって自他が明らかになる」と申しましたが、仏教の説く「普遍の真実」を少しご説明いたします。

仏教の教えの根本は「縁起」です。一般に言われる「縁起をかつぐ」の縁起ではなく、すべてのものは「縁って起きている(様々な事象は様々な条件が整って起きる)」という普遍の真実のことです。

以前にも書きましたが、仏教は神などの創造主を認める宗教ではありませんので、全宇宙のすべてのハタラキと存在は縁によって生じ、縁によって滅するのです。その縁は決して偶然のものでなく、必然として作用しているものなのです。

その縁起の法を根本として展開される教えが、「諸行無常(すべてのものは移り変わっている)」「諸法無我(すべてのものに不変的固定的な我というものは存在しない)」という教えです。

この教えを基に自らを見つめますと、全く逆の思いに縛られていることに気づきます。

いつまでも若く健康で長生きしたい、子供たちはみんな元気で親孝行、仕事や生活も順風満帆など、勝手な思い込みを持ち、自分に都合が悪ければ、不平不満を 言い、腹を立て、他人の幸せをねたみ、恨みを結ぶ、といった「諸行無常・諸法無我」に背を向けた生活を送っております。

この縁起の法を体得すれば自他への執着心から発する悲しみも苦しみも、不平不満や愚痴も解消されます。でも、私たちには到達不可能な境地であります。

むしろそのような自他に執着する自分であることに気づき、「縁起の法」そのものであるアミダというハタラキかけの中に自分がいることを自覚する。そして慚 愧(深い反省)の生活と歓喜からの報恩の行動が真の人間の生き方である事を仏教という宗教は教えてくれるのです。

宗教の目指すところはそれぞれ異なります。真と偽を見極める目を持ちましょう。


上記「Q.お浄土や地獄・極楽などは本当にあるのでしょうか…」は 来恩寺HP>メニュー2>仏事の迷信Q&A>No.20 より、引用・転記させていただきました。
来恩寺さんは、そのHPの冒頭に「楽しくなければお寺じゃない」(来恩寺の主張)とあるとおりの活動をされている元気なお寺です。ご住職の「あたたかさ」と「ユーモア」と「バイタリティ」は、HPからも伝わってきます。なんだかこっちまで元気がでてくるONSAI イチオシのお手本サイトです。