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浄土

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【 浄 土 】 じょうど

引用元    鸞らんクラブ 「鸞クラ辞典」

人間が考えうる最高にすばらしい理想の世界。(などと書くと、きっと怒る人がいるんだよね。「人間が考えうる」とは何だ!不可思議の世界だ!ってね。そう、最高の世界だから「不可思議」だと考えたんだろうね。 )
それはもう人間のたどりつけるような世界ではなくて、人間のドロドロしたいやらしさを抜け切ってしまった世界。自己中がまったくいない世界。

イヤイヤ、もっともっとすごくて、「私」という思いすら消えうせてしまって「私たち」しかありえない世界。
しかもせまい仲良しグループの「私たち」ではなくて、無限に広がってしまった「私たち」の世界。その「私たち」が「みんな」で「よろこび」を感じられる世界。

・・・・・・・・・・なんやそれ!?って感じでしょ?そ――なんです。僕らの世界とはまったくかけ離れたような世界だから、それを仏の世界と言うわけです。その世界のマスターがアミダです。

じゃ~その浄土って世界はどこにあるの?って話になるでしょう?「どこ?」って言うとき、僕らは地球上の、あるいは宇宙の・・・つまり人間の世界の空間で 考えてしまうんですよね。その空間でいくら探してもそれは「ない」んです。だって人間の世界じゃないんだもの。(なんかゴマカサれているみたいって?そう気をつけてよ!)

じゃ~どこ?って言うと、「僕らの世界をすっぽりと包み込んでいる世界」という感じ。まだわかんな――い!!という人のために、思い切って言ってしまいましょう。
「そんなこと、どーでもいいじゃない」、そうそんなことが大事じゃないんです。

<何で浄土が必要なのか?>
まず、何で浄土などという世界を設定しなければならないんだろう?ってことから。(「設定」という言葉に引っかかる人がおられるかも知れません。ごめんなさい。ここではそう書かせてください。)

ひとことで言えば、人間が本当の人間になるためです。ちゅーか「生きる」ってことを本当に考えるため・・・人間って何かを本当に考えてみるため・・・か な。例えて言うと、日本って国のことを本当に考えてみるために、色んなほかの国を歩いてみる、ということがあるでしょう?それと似ています。浄土という仏 の世界を設定することによって、自分たち人間の世界が本当に見えてくる。ッてことです。

<浄土と僕らの世界との関係が大事!>
で、いちばん大事なことはこれです。僕らからは浄土は見えませんから、浄土と人間世界とが関係を持つとすれば、それは浄土からの働きかけを僕らが受けるというスタイルです。

浄土は先に書いたように、無限に広がる「私たち」が「みんな」で「よろこび」を感じられる世界です。そしてそこのマスターであるアミダは、この僕たち人間 をその世界に一人残らず引き入れたいと言うのです。(お経には、そういう願いを起こしたアミダが、浄土という世界を建立したと書いてあります)。浄土から の働きかけとは、実はそのアミダの「願い」のことなのです。

その「願い」を僕らが受け止めるとき、僕らは自分の現実がその願いの心とはまったく逆で、「自分だけが一人で満足する『よろこび』ばかり求めている」とい うありさまだということに気がつくはずです。僕という個人がそうであると同時に、人間社会全体が、実はそういうところで組み上げられているし、動かされて いるということも見えてくるはずです。

そしてそうであるがゆえに、人間の世界ではつねに、お互いが自分のために他者を利用し、他者をおとしめて自分が「よろこび」を感ずるというバカなことをやっているのもわかってきます。それをお釈迦さまは「苦しみの世界=一切皆苦」と言われたのです。

さてこの項の結論を書かねばなりません。
浄土というのは、死んだ後に行く世界などでないことはおわかりになったと思います。現実のドロドロした人間社会の中に生きている僕たちが、今、現に浄土の アミダからかけられている「願い」に耳を傾け、自分の現実、この社会の現実をするどく直視させられ、そこから「どういう世界を目指せばよいのか」を考えさ せられつづける。
そういうものとして親鸞さんは浄土を教えてくださったんです。

上記「【 浄 土 】 じょうど」は、鸞らんクラブ >もくじ>鸞クラ辞典>「し」 より、引用・転記させていただきました。鸞らんクラブ さんは、福井県・光寿寺さんのサイトですが、その中に 「ゴチャゴチャ専門的なことは抜きにして、ホント大事なことだけ」の辞典、鸞クラ辞典があります。ONSAIが目指す「仏さまの教えをひらがなで お伝えする」ことの先輩のようなサイトです。
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 Q.お浄土や地獄・極楽などは本当にあるのでしょうか…。

by 来恩寺HP 仏事の迷信Q&A(No.29)

お答えいたします。地獄や極楽は、あると言えばありますし、ないと言えばないのです。ご理解いただけましたでしょうか…。

ご理解いただけないようですので、もう少し詳しくご説明いたしましょう。
地獄や極楽を場所と考えると、そんな場所は地球はおろか宇宙のどこにもないでしょう。
しかし、地獄や極楽を境界(状態)と考えればあると言えます。

例えば、温泉に入って気持ちが良いとき、思わず「極楽・極楽」とつぶやいている老人を以前はよく見かけました。
最近は「極楽」が死語になったためか「天国・天国」とつぶやいている人を見かけます。
失礼…。見かけません。

風呂場で「極楽・極楽」とつぶやく老人にとって、現実に居る場所は温泉なのですが、境界としてはまさに極楽にいる気分なのです。
「地獄」も同じ事です。傍目には立派な極楽のような御殿に住んでいても、家族の仲が悪く、いつも争いが絶えないような家であれば、そこは「地獄」となるのです。
このように地獄・極楽は場所としてはどこにも存在いたしませんが、境界としてはどこにでもある世界です。

では、私たち浄土真宗が大切にしている「お浄土」はどういう境界の世界なのでしょうか。
お釈迦様は光明無量、寿命無量の境界としてお浄土を説かれましたが、光明無量とは無限の空間を言い、寿命無量とは無限の時間を言います。 親鸞聖人は「土はまたこれ無量光明土なり」と阿弥陀仏の浄土を表現されました。

仏教では光明を智慧と表現しますが、阿弥陀仏の量りなき智慧の世界がお浄土と聖人は受け取られたのでした。
量りなき智慧とは、真実を伝えるハタラキのことです。人間に対して言えば、人間のあらゆるものに対する見識が間違いであることを知らせ、真実とは何かを理解せしめるハタラキのことです。

人間の苦はどこから生じるのでしょうか。
人間の根本的な苦は、老病死の苦、愛する者との別離の苦、憎い者との出会いの苦、求めるものが得られない苦などです。

これらの苦は人間の勝手な見識により作り出された苦だと量りなき智慧を受けてお釈迦様は説かれます。
例えば「愛別離苦」という愛する者との別離の苦を考えてみましょう。
人間の見識としては、死別によって姿を見ることが出来ない、言葉を交わすことが出来ないことを苦としますが、真実の智慧は、死別した者はたとえ姿は見えなくともハタラキとして存在しているのだ、なぜそのハタラキを見ようとしないのだ、と私たちに教えます。

存在は姿や言葉によってあるのでなく、ハタラキとして存在するのが真実なのです。少し難しくなりましたが、ご理解いただけますでしょうか。

お浄土を「倶会一処(共にまた会う世界)」としてお釈迦様は示されましたが、それは見える見えない、聞く聞けないといった物質的な出会いの場でなく、ハタラキとして故人を受け止めることが出来たとき出現する、疑いのない境界なのです。

上記「Q.お浄土や地獄・極楽などは本当にあるのでしょうか…」は 来恩寺HP>メニュー2>仏事の迷信Q&A>No.29 より、引用・転記させていただきました。
来恩寺さんは、そのHPの冒頭に「楽しくなければお寺じゃない」(来恩寺の主張)とあるとおりの活動をされている元気なお寺です。ご住職の「あたたかさ」と「ユーモア」と「バイタリティ」は、HPからも伝わってきます。なんだかこっちまで元気がでてくるONSAI イチオシのお手本サイトです。

 

 

■ 極楽浄土の非常識

 by おみじょ Web 「真宗の非常識」

「浄土へ行った故人は、娑婆の苦しみから解放されて、楽しくやっていることでしょう…」
という弔辞を聞きました。浄土って“場所”のことなのでしょうか?
また、お浄土のことを極楽ともいうので、感覚的な快楽が続く世界のように思っておられる人も多いようです。
たしかに浄土真宗では、浄土は西の方角にあるすばらしい世界だと説明します。でも、浄土を環境としてとらえるならば、あの世や冥土と同じ次元の妄想になり ます。しかし浄土は、現世において感得されるさとりの世界として存在します。つまり、心に直接はたらきかける境界として存在するのです。

具体的な例で説明しましょう。江戸時代の禅僧で日本臨済宗中興の祖といわれる白隠(はくいん)の話です。ある日、白隠のところに武士が来て問います。
「地獄や極楽は本当にあるのですか?」
だが、白隠はまともに返事をせず、問いを無視して
「おまえは武士のくせに、地獄や極楽といった死後の心配ばかりしている。死ぬのが怖いのだろう。武士なら武士らしくしろ! おまえのような腰抜け武士など、武士の恥だ!」
と、さんざんに罵倒しました。白隠の言葉に腹を立てた武士は、
「許さぬ!」
と刀を抜いて白隠に斬りかかります。それをひらりとかわした白隠は、
「それ、そこに地獄がある!」
と言いました。

武士は、はっと気がつきます。彼は平伏し、白隠に詫びます。
「老師、ご無礼をお許しください」
「それ、そこに極楽がある!」
白隠はそう言いました。地獄も極楽も私たちの心の眼の向けようによるのだということを白隠は教えたのです。

これは禅宗の話ですが、浄土真宗にも通じるものがあります。『阿弥陀経』には極楽浄土が西方の十万億土を過ぎ去るかなたにあると説かれています。極楽浄土 が途方もないかなたに存在するというのは、浄土に生まれることがいかに難しいかを示すとともに、真実の境界と私たちの心の隔たりがいかに大きいかを表して います。

真宗仏光寺派の総務・日野英宣師は、ご縁をいただかれた先生から
「親にさえ頭が下がらない人間に、お念仏の心などわかるはずがない」
と喝破されたそうです。私たちは
「生きている親に、一度でも頭を下げたことがありますか」
と問われて、
「ハイ、あります」
と、率直に言いきれるでしょうか。下げるまねをしたことはあっても、頭を上げて見ようがない存在として親に接した覚えはありません。額と畳の間のわずか1メートルばかりの距離が、心の隔たりから言えば、十万億土のかなたに等しいのです。

浄土とは「私たちの心のありようを気づかせるもの」と受けとめることができます。宇宙のどこかにある“場所”の説明ではありません。

上記「極楽浄土の非常識」は おみじょ Web>トップページ>真宗の非常識>極楽浄土より、引用・転記させていただきました。
おみじょ Web は、1992年創刊の広島地域で無料配付される季刊の浄土真宗聴聞情報誌『おみじょ』のWeb版です。「おみじょ」とは、「おみのり(教え)のじょうほう(情報)」の略だとか。「真宗の非常識」は他にたくさんのテーマに沿って 詳しくかかれています
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