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仏事のこころ

仏事のイロハ     「おとむらい」 のこころ

今どき、「弔う」と書いて「トムラウ」と読みます。ちなみに古語辞典を見ますと、「弔」という字もありますが、「訪」という字を当てて「訪う」=「トブラウ」と読む場合もあります。

まず、「弔う」の場合は、亡き方に追善供養する、つまり、亡き方の行方を心配する心持ちが伺えます。しかしながら、本当は亡き方の心配ではなく、自分の今が「タタリ」でこわされるのではないかという心配だったりします。

一方、「訪う」と は、「案じ、たずねること」です。亡き方の死(いのち)を通して、私の(いのちの)今を、これからを、「訪ねる」のです。亡き方の心配をするのではありま せん。反対に、亡き方に心配をかけるような、危なっかしい生き方をしてはいないかと、自分の在り様を「案じる」のです。

忙しい、忙しいと言いながら、何か大切なことを後回しにしてはいませんか。訪うとは、亡き方を心配するのではなく、亡き方が私のことを命懸けで心配して下さることー。そんなふうに味わいます。

とむらいとは、訪うこと…。大切におつとめ下さい。

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仏事は 亡き方のため(心配)?

葬儀や法事などの仏事は、死んだ者のために、亡き方のことを心配してつとめる…。一般的には、そんなふうに思われています。しかし…。よく考えてみてください。

そもそも、「心配」というのは、大丈夫な方が、大丈夫でない方を心配するわけです。確かな方が、不確かな方を心配するのです。大丈夫でない方が、大丈夫な方を心配することはできません。

あの阪神大震災の時を思い出してみて下さい。大丈夫な島根県の者は、大丈夫でない阪神地区の方々の心配をしました。しかし、阪神地区の人々が、大揺れの中、「ふるさと島根県は大丈夫か?」などと心配することは、とてもできません。

今、亡き方の心配をするというならば、自分は大丈夫(確か)であることが前提です。ですが、忙しい、忙しい、と大切なことを後回しにして、欲望に振り回される私は、とても「大丈夫」とはいえません。亡き方を心配するどころか、反対に亡き方に心配をかけるような、危なっかしい生き方をしているのが私です。

だから、大丈夫でない私を、大丈夫な仏の国から故人のいのちを通して「心配」して下さる…。私が心配することではなく、私のことを心配して下さる「さまのお仕」、仏・事なのだと味わいます。

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七回忌の食事!?

法事とは、この私が「に遇(あ)わせていただく行」ともいえます。
ところが、なかなか「法」(教え)を中心とした行事が、つとめにくくなってきました。

七回忌の法事が近づいたときの、あるご門徒さんの言葉です。
「さて、今度の法事のお膳(仕出し)は、どこに頼もうか?予算はいくらにしようか?」

そして法事の当日、私(住職)へ向けて、
「あのう、11時半にお膳が来ますので、それまでに(法要が)終わるようにお願いします。」(私は時計から目を離せなくなる…)

さらに、法要後のお膳の席で親戚衆が、またおっしゃる…。
「なんと、この度は奮発した立派なお膳ですなぁ。」

あれあれ、これじゃ、お膳が主役です。法に遇(あ)うどころか、「お膳(べ物)に合わせていただく行」です。法事とはいえません。食事です。

たしかに、食を共にするということは、とても大切な意義深いことです。しかしその前に、「法」をお忘れなきように。せっかく、亡き方から私への命がけの心配をいただく仏事です。

この私が法に遇い、私のあり方を訪ねることが大切です。

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火見舞い

「火見舞い」という言葉をご存知ですか?「火見舞い」とは、つい先年まで、瀬戸内地方の一部の島で残っていたといわれる、葬儀の後、火葬場でなされる儀式の名前です。

それは、亡き方が火葬されている間、老いも若きも、男も女もみな、代わる代わるに火葬の様子を小さな窓から覗くというものです。自分の肉親が、炎の中に身を置く、その様子を覗きこんで「見舞う」訳です。

なんと きびしくも、おごそかな儀式でしょうか。亡き方が自分のいのちを賭けて、身を呈して示して下さる「死」という事実から目を背けることなく、しっかりと受け止めていこうとする尊い姿勢といえます。

とかく現代は、「死」ということを、平生の中では、なるべく遠ざけて、問題にしないようにしています。4や9という数字さえも根拠のない語呂合わせで嫌います。ですが、いくらごまかしても、ごまかしきれないのが、わたしの「死」です。

昔、京都の火葬場であった鳥辺野に立つ煙をみて、
「鳥辺野に昨日も煙、今日もまた 眺むる人の いのち いつまで」
と詠んだ人がいます。

これは、火葬場の釜の中に入れられる棺を見送りながらも、その自分にもいつの日か必ずこういう日が来る。そして、それは今日かもしれない、明日かもしれない、そんな心持ちの歌でしょう。

逃れようのない、そして、いつ訪れるかわかない死という事実を他人事としないで、私の問題として向合った時、そこに生きる意味を見い出すことができるのです。

「大丈夫か、死という事実は必ず来るよ、代わりはきかないよ、いつくるかわからないのだよ…」
という、亡き方の命がけのメッセージを受け止めることが、そのまま、
「粗末にいきてなるものか」
といのちいっぱい生き抜く道が開かれることになるのでしょう

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