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ひらがな法話hirahou

川のための岸


あるお寺の掲示板に、
     「川のための岸、私のための本願」
という言葉がありました。

川は、速くなったり遅くなったり、曲がりくねったりして流れます。そして、その流れに沿って川岸があります。

たとえ、大洪水になって川の流れる道が変わり、今までと違う場所へ流れたとしても、やはりその流れの両側には岸があります。

つまり、川の流れ沿って必ず両岸があります。言い換えるならば、岸のない川などありません。今、私のいのちをこの川の流れにたとえ、阿弥陀さまの本願にたとえているのが、この掲示板の言葉でしょう。

わたしの生きざまも、川の流れのように勢いよく流れることもあれば、ゆっくり曲がっていくこともあります。しかし、川に寄りそう岸のごとく、阿弥陀さまは片時も私から決して離れることなく、いつでもどこでも一緒にいてくださるのでます。

私ごとですが、私の母方の祖母は晩年に老人性痴呆性、いわゆるボケ症状が進んでまいりました。ある日、母が面会に行ったところ、残念ながらわが娘である母さえも誰なのかわからないという状態でした。

そんな祖母を母がお仏壇の前に連れていったところ、祖母はしみじみと合掌して、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏申します。自分の娘のことさえわからなくなっていても、如来さまの前では 口からお念仏が出る祖母でした。

この様子を聴いて、私は冒頭の言葉を思い出しました。
      「川のための岸、私のための本願」。
私たちの人生は、時には自分の思いもしない方向に進むことがあります。祖母のいのちの流れは、ある時から痴呆という思いもかけない方向に曲がっていきました。

しかし、川に沿って岸があるように、私から決して離れることなく寄り添っていてくださるのが、如来さまの御本願のお働きでありました。

長い川も短い川も、きれいな川も汚れた川も、太い川も小さな川も、みんなみんな 最後は海へ流れ込みます。そこでは、みな同じ一味の潮となります。

人それぞれに、さまざまな人生がありますが、如来さまの浄土へ迎えとられ、如来さまと同じおさとりを開かせていただくのです。

そして、その川が海にたどり着くまで、両側に岸辺があります。私が浄土へ生まれるまで、如来さまはこの私に寄り添うていてくださいます。