| 失くして得る | |
| TABI-NO-SHIORI(人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ 失くして得る | |
私ごとで恐縮ですが、ここ数年、秋の山の紅葉が とても目に鮮やかに飛び込んで心打たれるようになりました。 川の水面に反射する陽の光に映える紅葉も素敵です。 秋空の青色の中に 紅葉した山々の輪郭がくっきりと浮かび上がるコントラストは 何ともいえません。 こんなふうに近年の山々の様子が変わったのかと 思っていましたら、その時期は、私の目がうすくなる、つまり老眼になりはじめた頃と重なります。 また、秋には各寺院の報恩講にお参りして、精進のおときをいただきますが、私はこの精進料理が何とも味気なく、物足りなく感じて、苦手でした。 ところが、これまた近年は 違います。精進料理をとても美味しくいただけます。何日も続いても 飽きることはありません。 精進料理は にんじん・ごぼう・しいたけ・白菜…、野菜の味そのものが口の中に飛び込んできます。油を使う西洋料理では こうは いきません。 たしかに 以前ほど 脂っこい料理は 食べられなくなりましたが、その分、精進料理の美味しさに出会いました。 そして、あれほど 辛かった、冬の朝に起きて冷たい本堂で おつとめすることが、そんなに 苦にならなくなりました。 若いときのように、昼まで寝るようなことはできなくなりましたが、冬の朝の凛とした冷気の中、白い息を吐きながら本堂でお勤めしていますと、なんともいえない、すがすがしさを 感じるようになりました こうしてみますと、年を取るとういうことは、できないことが増えて、不自由になることが多いかもしれませんが、その分、それまで気づきもしなかったことを 思い知らされます。 年を取るとは 昨日わからなかったことを今日気がつかされること、 50才でわからぬことを60才で知らされること…なのでしょう。 @近くが見えにくくなった代わりに 照り映える紅葉に心打たれるようになり、 A脂っこいものが あまりたべられなくなって、精進料理の美味しさがわかるようになりました。 B昼まで寝続けることはできなくなりましたが、凛とした冬の朝の清々しさを味わえるようになりました。 みんな、みんな、ひとつ失うままに ひとつ得させていただきました。 言い替えれば、失わなければ 得られなかった…のかもしれません。 年を重ねていくと、それまで何でも一人で出来ると思い込んでいた若い頃とは違い、何一つとして、周りのお世話にならなければ生きて行けないことに気づかされます。 これまた、仏さまが真実のマナザシで教えて下さった「おかげさま」ということを 不自由になっていくわが身が 教えてくれているのかもしれません。 (たしかに、二十歳の頃に 一日の終わりに 「今日も一日おかげさまで…」とは 思えませんでした。) だからこそ、「若いモンの世話にはならない!」ではなく、 「世話をかけるねえ。すまないね。有難う」…とありたいと思います。 そして、老いてゆく中に、去年と同じことを去年と同じように今年も出来るということは、けっして 「あたりまえ」はない。文字通り、有ることが難しい… 「有難い」ことだったと気づかされていくのでしょう。 年を取るということは、おかげさまの見える目をいただくこと…そんなふうに味合わせていただきました。 → 「歯が抜けて 噛みしめる 親の味」 (言の葉 〔16〕) |
|
| の実験ゆでカエル の実験 | |
| TABI-NO-SHIORI(人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ ゆでカエル の実験 | |
自己啓発の本などで、よく紹介されるという、「ゆでカエルの実験」の話をご存知ですか。 それはまず、鍋で熱いお湯を沸かして、その中にカエルを入れます。 するとカエルは、お湯の熱さにたまらず、鍋から跳び出します。 次に、同じ鍋の中に水を入れ、その中にカエルを放しますと、今度は 跳び出すこともなく、鍋の中で普通にじっとしています。 そこで、カエルが入っている鍋を そのまま ガスコンロにかけて 弱火で ゆっくりと温めていきます。 さあ、果たしてカエルは 水温が何度になるまで、我慢して鍋の中にいることができるでしょうか? そんな実験です。 最初の水温は20℃でした。カエルは30℃になっても、出ません。 40℃。お風呂なら「ぬるめの湯」ですがカエルは まだ出ません。 50℃…人間なら熱くて入っていられません。しかし、カエルは出ません。 60℃でも、70℃でも出ません。 実は 死ぬまで 鍋から出ることはないのです。 この実験は、居心地のいい環境の中に身を置いたままでいると、自分の周りに起っている緩やかな変化に気づかず、大切なことを見失ってしまう ということを教えてくれます。 もしも、水を温めていく途中で カエルを一度 鍋の外に出してやり、それから また鍋に入れたなら、どうでしょう。 今度は、カエルは 水温の上昇を気づいて、すぐさま跳び出すことでしょう。 しかし、鍋の中から出ることなく、ずっと入っていたので、わが身の命に及ぶ危機さえわからなかった…という訳です。 この話を聞いて 私は すぐに 子どもに言いました 「テレビゲームばかりしてると、あたなたちもカエルのようになるよ。ゲームばかりしないで、ときには外に出て遊んだり、勉強したりして、それからまたゲームすると きっともっと楽しくなるよ。」 …と。ですが、ゆでガエルとは、子どもだけのことではありません。 忙しい、忙しいと仕事ばかりに振りまわされて、休むことを知らない人。 家族のことも自分のことも置き去りにして、大切なことに気づかず、出会うこともなく、一生を空しく終わってしまう人。そんな姿と重なります。 思いますに、仏事や法事のなどは、先立たれた方々が、忙しいと大切なことに気づかない私たちを 鍋の中から引き出して下さるご縁といえるかもしれません。 朝夕にお仏壇の前に座わってお参りすることも 同じです。 走り尽くめの日常の中、ふと 立ち止まり、 やり直しはできなくとも人生を見直す時間をもちたいものです。 ※ この話は あくまで たとえ話のようで、実際にカエルで実験した結果とは 異なる…らしいです。 |
|
| いい格好」しない… | |
| TABI-NO-SHIORI(人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| いい格好」しない… | |
親鸞聖人の著作 「愚禿鈔」の中に 次のような言葉があります。 賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり この、「外は賢なり」というときの「賢」とは 「いい格好をする」、「偉そうにする」と言い換えてみたらどうでしょう。 中身がなくても、ついつい、自分を飾って 自分がしてきた業績を誇ってみたくなります。あるいは、自分にできない(していない)ことがあったときには 「するつもりだったのに」と いい格好をします。 また 自分が「賢」であると、 「賢」でない人に対して「ダメだね」と見下したりします。 そして、自分は 「ダメ」といわれたくないから、さらにまた「賢」になろうと いい格好します。 自分以上の自分を周りに認めさせようとする生き方です。とにかく「私はね」、「僕はね」、「俺はね」…と自分を語ります。考えてみれば (本人も周りも)辛い・苦しい生き方です。 反対に 「外は愚なり」というときの「愚」とは、いい格好 をしないで、「私には できません」、「ごめんなさい」、「有難う」 といえることでしょうか。 自分を自分以上に見せることなく 等身大の生き方です。「すごいね、あなたは」と 相手を認めることでもあります。これだと、自分も周りも しあわせになれそうです。 それに、よく考えてみれば 本当に「賢」ならば いちいち 自分からいう必要はないんです。 「賢」でないから 「賢だぞ」って いわなきゃならない。弱いから強がるようなものでしょう。 よく知りませんが、ヤクザのチンピラは やたら強がって凄んでみせますが、親分クラスになるとは 黙っていても 周りが 引いてしまう(らしい)…そんな感じでしょうか。 あの田中角栄 さんの言葉に 「愚者は語る、賢者は聞く」とあるそうです。 当サイト 人生ナビ「言の葉」には、「空っぽのバケツは いちばん大きな 音をたてる」とあります。中身が詰まれば 大きな音はしません。 そういえば阿弥陀さまも ご本願の第17願目に「諸仏から褒め讃えられる仏になる」と誓われ、阿弥陀経では諸仏から「阿弥陀仏は すばらしい!」と阿弥陀さまが褒め称えられていらっしゃいます。 医者でも、ホントの名医は何も言わなくても患者の方が 「あの先生はすばらしい」といって 放ってはおきませんし、「自分は名医だ」という医師のほうがヤブ だったりします。 「内は賢にして外は愚」とは、なかなか難しいことかもしれません。 しかし、できないことを「ごめんね」といい、してもらったことに「有難う」と、「いい格好しない」で生きていけたらいい…そう思います。 そこには 自分も周りも認めて(引き受けて)いける広い世界があるような気がします。 〔末註〕 ただし、「私はダメな人間です」と いいながら、ほんとは 「いや、そんなことありませんよ。アナタでなければいけません」と もっと褒めてほしくて、そう言ってる場合がありますので、気をつけましょう。 こんなとき 「そうね、やっぱりアナタはダメね」…なんて言ったら、大変なことになりますので、十分ご注意下さい。 |
|
| 家族のため、町のため… | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ 家族のため、町のため… | |
| 以前 私がまだタバコを吸っていたころ、そのタバコは必ず温泉津町内で買うことにしていました。というのも、タバコの税金は買った場所に還元されることを聞いてましたから。同じ買うなら
地元で…ということです。 もちろん京都などへ数日間 出かけるときは、数日分のタバコを温泉津で買いだめして行きました。そして、帰りの途中(高速道路)で タバコがなくなると、 「せめて島根県に入るまで(買うのは)ガマンしよう」 なんて思ったりしました。ふむ、なんて素晴らしい郷土愛! ところが、ある法事の席で誇らしげにこの「郷土愛タバコ」の話をする私に、ご親戚の男性がひと言…。 「ゴインゲ(御院家)さんも、心が狭いねぇ〜。自分の町、自分の県にこだわって、他の町、よその県ことを考えてないんじゃないのー?」 なるほど、郷土愛といいながら、自分の郷土ばかりを優先して考えて、よそのことは二の次です。 「愛」とは執着・とらわれである…と仏教で教えられるのは、こういうこというのでしょう。 「家族のため、町のため、会社のため、自分のことは差し置いて他の人のために頑張っている」というお方に出会うことがあります。 しかし、それもよく考えてみると、 「家族のため、町のため、会社のため…」というのは 「自分の家族のため、自分の町のため、自分の会社のため…」 でした。決して 「隣の家族のため、よその町のため、他の会社のため…」ではありません。 結局、これまたどこまでいっても 自分中心の思いから離れられない我が身が知らされた…の巻でした |
|
| ■ 集合写真 | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ 集合写真 | |
| 結婚式の集合写真が送られてきました。 さて、写真の中にいるたくさんの人たちの顔、まず最初に 誰を見ますか? もちろん、主役の新郎新婦から…ではありません。 まず、自分を捜します。 「えーっと、たしかあの時は前から2列目の左から5番目くらいにいたはずだけど…。おーっ、写ってる写ってる。ありゃー、ちょっとネクタイ曲がってたなー。……で、花嫁さんは どんな顔だったっけ?」 こんなふうに、まず「自分」です。 集合写真どころか、旅行の時に写した2〜3人のスナップ写真でも同じです。まず、全部の写真をひと通り見て、「自分」を確認します。 それから、「隣の人はだれだったかな〜」と自分以外を見ることとなります。 これは、いかに「自分中心」であるかの証拠だそうです。 「自分のことは 差し置いて、まず人のため…」という人も、写真を見るときは ほととんど同じようです。 心がけ、意識しているときは「自分を抑える」ことができますが、パニックになったり、無意識の時は いつの間にやら「わが身可愛いさ=自分中心」が顔を出してしまいます。 こんなおぼつかない「ほんとうの自分」を知らされていくことが、仏法を聞いていくことなんでしょうね。 |
|
| 前画面にもどる | |
| 因果の道理をあれして これして…わきまえて | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示す |
| ■ あれして、これして… | |
| 当寺へお越しの先生(法座講師)から、一休禅師と蓮如上人の 次のような手紙やり取りの話を聞かせていただきたことがあります。 (註:話の真偽は 定かではない…と前置きがありました(^^ゞ) |
|
| 【 一休(宗純)さんから、蓮如上人への手紙 】 | |
| あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして ………… ………… …… ………… ………… ………… ………… ………… … ………… ………(ずーっと こればかり)……… ……… ………… ………… ………… ………… ………… … ………… ………… …… これして あれしてこれして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして あれして これして とかく 人間とは 忙しきものなり 宗純(一休) 蓮如どの |
|
| この手紙に対する返事 | |
| 【 蓮如上人から、一休(宗純)さんへの手紙 】 | |
|
寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て ………… ………… ……… ………… ………… ………… ………… ………… ………… ………… ………(ずーっと こればかり)……… ………… ………… ………… ………… ………… ………… ………… ………… ………… ………… 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て 寝て食て かくて 人間とは 死ぬものなり 蓮如 宗純(一休)どの |
|
| 忙しい、忙しいと 目先の用事にアレコレと振り回され、食わねば生きられぬアクセクして、一日暮れたと寝ているうちに一生が過ぎていく…。 大切なことに出遇(であ)うことなく、空しく人生を過ごしてはならない…. そんなことを このお二人は手紙の文面の底に教えて下さっているような気がします。 |
|
| 因果の道理をわきまえて | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ 因果の道理をわきまえて(T) | |
| とあるインチキ宗教の信者サンが真顔で言いました。 うちの宗教はスゴイよ!心を込めて「@@@@@」(←呪文みたいなもの)を称えれば、何だってできないことはないんだ!。 この間も、大急ぎの用事で国道を走っていたら、向こうに見える信号が赤だったんだ。ここで止まれば用事に遅れて大変なことになる。そこで、 「@@@@@、@@@@@、信号変われ!@@@@@」 って称えたら、ナント!赤信号が青に変わったんだよ! どうだい? スゴイだろう?うちの宗教!。 ………。 賢明なるアナタは、もうお分かりでしょう。そうでうよね。信号は一定の時間ごとに青→黄→赤→青…と変わるようにセットしてあります。 だから、 「@@@@@」って称えたから、信号が変わった のではありません。 信号が変わる前に、「@@@@@」って称えただけ のことです。 原因と結果を入れ替えて、自分の都合のいいように言ってはいけません。 友引の日は 「友を引く」とか言って葬儀を先延ばししたりするのも同じです。 これも、原因と結果をちゃんと見据えると 友引の日に葬式をしたから、つづいてまた葬式ができた(人が亡くなった) のではありません。 続けて葬式があったときの 最初の葬式の日が(たまたま)友引であっただけ なのです。 だから、続けて葬式があったときの 最初の葬式の日が大安や仏滅だったりすることもあるのです。 占い・まじない・迷信はみんな、この類です。ご用心ご用心。 私たち浄土真宗の宗風(←宗派の「家風」のようなもの)には、 「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷や、まじないを行わず、 占いなどの迷信にたよらない」 とあります。 一度しかない人生の今日という大切な日を 迷信に振り回されては、勿体ないです。 |
|
| 参考 住職ノート 徒然草に聞く へ | |
| 因果の道理をわきまえて | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ 因果の道理をわきまえて(U) | |
「あのぅ、葬儀の後でも、年回法要の時でもない、普段の時に仏壇を 買ったら死人が出る(死んじゃう)って、本当ですか?」 門徒さんから、こう聞かれると、 「仏壇を買うことと死ぬ(死人が出る)ことは、何の関係もありません。 そんなことを気にしないで買った方がいいですよ…。」 って私は言います。 ところが、私が習った先生(お坊さん)は、同じ質問を受けた時に 「そうそう、死ぬよ!」 って答えました。 すると、門徒さんも妙に納得して、 「じゃ、(買うのは)やめときしょう。」 って帰りかけました。 そこで、先生は門徒さんを呼び止めてひと言、 「おいおい、買わなくても死ぬよ!!」…(~_~;) なるほど、仏壇を買おうが買うまいが、死ぬ時きゃ、死ぬのです。仏壇を買ったから、死ぬんじゃない。生まれたから、死ぬのでした。 だから、仏壇を買わなくても死ぬのです。 占い・まじない・迷信はみんな、この類です。ご用心ご用心。 私たち浄土真宗の宗風(←宗派の「家風」のようなもの)には、 「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷や、まじないを行わず、 占いなどの迷信にたよらない」 とあります。 一度しかない人生の今日という大切な日を 迷信に振り回されては、勿体ないです。 |
|
| 参考 住職ノート 徒然草に聞く へ | |
| 耳を澄まして… | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ 耳を澄まして… | |
| もう、ずい分前のことですが、遠洋航路の船乗りさんにこんな話を聞かせてもらいました。 大海原をゆく船にとって、大切なものの一つに、無線による通信があります。 ところが、その大切な無線を 一時間に2回、3分間ずつ、すべての船が一斉に中断するというのです。 その理由は、小さな船が遭難して発信しているかもしれない「SOS」つまり、「助けて下さい!」という電波を聞き漏らさないため。 今、出力の小さい電波で、必死に助けを求めている船があるかもしれない…。だから、世界中の大きな船も小さな船も、みんながピタッと通信を止めて耳を傾けている…。 なんだか想像しただけで 胸が熱く・嬉しくなりました。 ところが、ふと現実に目を向ければ、朝から晩まで自分の思いを発信するばかりの(子どもの前ではさらに出力を上げて)自分がありました。 周りの人いうことに耳を貸さないで、やたら大きな声を出して、自分の思いを押し付けているような気がします。 それならば、船のように30分毎でなくとも、せめて一日一度 無線機のスイッチを切ってみたいものです。そしたら、聞き漏らしていた大切な声が聞こえてくるかも…。 思いますに、朝夕の仏さまへのお参りは、「心の無線機」を停止するための貴重なひとときなのかもしれません。 えっ?お仏壇がない?だったら、すぐ 求めましょう。 このサイトからも お世話いたします。 MENU > 仏事のイロハ > お仏壇 >ちっちゃいお仏壇がほしいな (ミニミニ仏壇のご紹介) ◆一口メモ◆ この無線を停止する時間を「沈黙時間」といいます。(←静岡県小松様が教えて下さいました<m(__)m>)
第一沈黙時間 (電波法第64条) 中央標準時による毎時の15分過ぎから18分過ぎまで及び45分 過ぎから48分過ぎまでをいい、この時間には海岸局及び船舶局 は490kHzから510kHzまでの周波数を発してはならない。 この、SOSに耳を傾ける沈黙時間の設置のきっかけはあの豪華客船「タイタニック号」の沈没でした。(SOLAS条約) 以来、弱い電波の遭難信号(SOS)も聞き漏らさないために、全世界の船舶と海岸局が守ったきたのが、沈黙時間です。 しかし現在では、モ−ルス電信が衛星通信等に代わり、平成11年1月をもってSOSは廃止されたようです。
|
|
| 言の葉 人間は耳が二つに… へ | |
| お月見・お花見 | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ お月見・お花見 | |
| 中秋の名月にちなんで、我が家のベランダ(物干し台ともいいますが)で お月見としゃれ込んだことがあります。 ところが、お月見を始めてから数分もたたないうちに、 「えーっと、今日が15日だから、あの書類は明後日までにしなくちゃ…」 「そうか、もうすぐお彼岸法座だな。ご門徒への案内は…」 などと、もうお月見どころではありません。 挙句の果てに電話がかかって呼び出されると、もうダメです。 なかなかお月見とは難しいものです。 その次の日、先輩の僧侶に 「月の前に座ったとたんに、アレコレいろんなことを考えてしまって、 私みたいな者には、お月見なんて無理みたいです…」 と話したところ、 「いやいや、それこそがお月見だよ。」 という答えが返ってきました。 「お月見とは月を見ておしまいになるじゃないよ。月を見ながら、月を見ている自分を見ているのだ」と言われました。 お花見も、きれいな花を見ながらお酒を飲んで盛り上がるのが、お花見ではないそうで、花を見ながら、花を愛でている自分を見ているのだそうです。 さらに続けて、「仏さまにお参りするのも同じだよ」と教えて下さいました。 仏さまにお参りしながら、実は、仏さまに手を合わせている自分に出あうのでした。 なるほど、それでお仏壇の前に座ると急に忙しくなるわけでした! |
|
| 知りませんでした <m(__)m> | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ 知りませんでした <m(__)m> | |
| 第二次世界大戦が終了し、アメリカの占領下にあった敗戦国日本の将来を決めるサンフランシスコ対日講和条約が1951年9月に締結されました。 この会議においてセイロン(現スリランカ)代表のジャヤワルダナ外務大臣のスピーチは、日本の命運を一変させたといわれます。 それは、各国首脳をたいへん感銘させ、ジャヤワルダナ氏を「世界最高の外交官」と言わしめるほどで、次のようなものでした。 「我々セイロン国は、戦時、日本軍による爆撃や重要産品の生ゴムの支配など、様々な戦争被害を受けた。これは当然つぐなわれるべきものである。しかし、我々は、仏陀の教えを信じる仏教徒である。 仏陀の言葉には、 『もろもろの怨みは 怨み返すことによっては、けっして鎮まらない。 ものもろの怨みは 怨み返さないことによって鎮まる。 これは永遠の真理である。』 とある。よって、我々セイロン国は日本に対する損害賠償権の一切を放棄する。」と。 歴史の中に仏陀(釈尊)の言葉をしっかりと見据えた、高らかな宣言でした。(同様の趣旨でインド、ラオス、カンボジアなども賠償請求権を放棄) そしてその上で「アジアの将来にとって、主権独立した自由な日本が必要である」ことを強調して、一部の国々の主張した日本分割案に真向から反対して、これを退けたのです。 つまり、今日の私たちの豊かな生活や 主権国家として日本の繁栄は、スリランカなどの仏教徒のこころなくしては ありえないものであるといえます。 しかし、そんなこと 私は全く知りませんでした。教科書でも、新聞でも、テレビでも 見たことがありませんでした。たまたま、本願寺門主の著書「朝に紅顔ありて」(今年4月刊)の中にその史実が紹介されていて、初めて知りました。 それから 調べてみたのが 上に書いたとおりのことです。私は今までに スリランカ(セイロン)の人とお会いしたことがありましたが、「その節は 有難うございました」と 御礼の言葉をいうことができませんでした。(オハズカシイ) おかげ・めぐみ・ご恩… これらば 「知らされる」「聞かされる」ことがなければ、文字通り「わからない」のだと痛感しました。知らなければ、御礼(有難う)もお詫び(ごめん)もありません。 調べていくうちに、セイロン外相は、怨み返すことが、さらなる怨みを生むことを歴史の中で知っていたことがわかりました。 それは、あの第一次大戦のとき、 敗戦国となったドイツに対して、戦勝国側が過酷な賠償を請求し、それに対する怨みがついには ヒトラーを生んだことです。そして、第一次大戦以上の痛ましい第二次大戦へと連なっていったという、まさに釈尊の言葉どおりの歴史です。 「怨み返さないこと」…。それは頭では理解できても、「自分の問題」となったとき、これほど 忍耐の必要で、難しいものはないでしょう。そして、それを実践されたセイロン他の諸国には ただただ 頭が下がるばかりです。 ※ ジャヤワルダナ外務大臣のスピーチ記録は ココ に掲載されていました。 |
|
| さて、ここで問題です。 | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ さて、ここで問題です。 | |
|
|
|
■ 第 1 問 ■ 右のような 見事な枝振りの松が ありました。 さて、この松をまっすぐに見ることができれば、合格です。 どんな ふうに見ますか? (出題者 一休さん) ※誤答例 「上から見る」、「片目で見る」など…。 解答は ココ |
![]() |
|
|
|
■ 第 2 問 ■ 鏡に映った自分の姿を思い浮かべて下さい。 左右は反対に映っていますが、上下はそのままです。 どうしてでしょうか? (出題者:H13年 山陰教区僧侶研修会にお越しの講師様) ※誤答例 自分の目が左右に並んでいるから。 解答はココ |
|
|
|
|
■ 第 3 問 ■ 鯨の肉を500グラム使って、精進料理を作る方法を答えて下さい。 ※精進料理とは、ここでは魚や肉を一切使わず野菜や大豆、 海藻などだけで作るいわゆる菜食料理のことをいいます。 (20年ほど前に 読んだ本にありました。書名不明) ※誤答例 1、コロモを厚くつけて天ぷらにする(ごまかしてはダメです)。 2、細かくすりつぶして カレーライスに入れるとわからなくなる… (わからなくても、肉が入っていれば 「精進料理ではありません) 解答はココ |
|
|
|
|
■ 第 4 問 ■ (オマケ) 象を冷蔵庫に入れるには、どうしたらいいでしょう? (出題者:日日あらたに相互リンクサイト YUYU'S LOUNGE のYUYU♂さん) ※誤答例 象をバラバラに切って、肉片にして分けて入れる (いいえ、ここではバラバラにしないで下さい) 解答はココ |
|
|
|
|
| どこでも ド真ん中 | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ どこでも ド真ん中 | |
| ふつう、「真ん中」というのは、一つです。「中心」や「真ん中」が、2つも3つもあるとは考えません。部屋の中心(真ん中)、パソコンの画面の中心も一箇所(一つ)です。ところが、こんな場面ならどうでしょう。 周りを水平線に囲まれた大海原に浮かぶ船がいくつかあったとします。 そこで、それぞれの船の人たちに 「この空の真ん中を指差して下さい」とたずねたならば、 どの船の人も自分の船の真上を指差します。 どういうことでしょう? 大海原では、一つしかないはずの「真ん中」が たくさんあるのです。 これは、 限りがなく、果てしない世界では、その中心がたくさんある、ということを示しています。 つまり、無限の中につつまれる時、自分のいるところがそのまま、その世界の中心となるのです。そこでは 他のすべての人たちにとっても、やはり「自分」のいるところが「真ん中」になります。人の数ほど「中心」がある、といえるでしょう。 さて、阿弥陀如来さまは、「十方衆生(生きているものすべて)を必ずすくう」と呼びかけていて下さいます そして、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきは、何ものにも妨げられることなく(限りなく)届けられます。 ですから、親鸞さまは、「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、 ひとえに 親鸞一人が ためなりけり」(歎異抄)と言われました。 つまり、阿弥陀さまのおすくいは 親鸞一人のため(すくいの中心は自分)だといわれます。 もちろん、私たちも その親鸞という名を自分の名に置き換えて、「○○一人のため」といっていいわけです。なぜなら、私たちは今、阿弥陀さまの果てしなく限りのない智慧と慈悲のはたらきの中にあるからです。 さて、子を思う親心は仏さまが衆生を思う心と似ているといいますが、私たちの親心は「自分の子」に対してのみです。「よその子」までは心配しません。 ところが、限りのない智慧と慈悲の阿弥陀さまの親心の中では、だれもがド真ん中。「よその子」はありません。みんな「うちの子」です。 |
|
ひらがな法話 みんな「うちの子」 へ |
|
| 「お」へいく■ 入棺体験? | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ 入棺体験 | |
| とある看護学校で、学生たちが「入棺体験」を行った…そんな新聞記事があったことを近所の住職さんが教えてくれました。 それは、葬儀社の協力を得て、実際の納棺と同じ手順を踏んで棺の中に入り、フタを閉めてしばらくそっとしておく…という「本格的」なものだったそうです。 ともすれば、間違いなく引き受けなければならない「死」をごまかし、たとえ目を向けたとしても、他人事として見てしまう私たちに、否が応でも「死」を自分の問題として提示する厳しい「実」体験だといえましょう。 体験後の学生たちの感想はさまざまでした。 「棺の中にいる自分をのぞき込まれるのが辛かった。患者さんに接する自分の姿と重なった」といいいます。どれほど気持ちを込めたとしても、上から覗き込めば、それは見下したことに他ならないことが知らされます。 そして、約半数の学生が、「死の見方が変わった」と答えています。 「死んだら 骨と灰になると思っていたが、そうではない」 「死 は それで終わりではなく、始まりである」 漠然としながらも、こんな感想をかなりの学生が持ったと聞きます。 死んで終わりでないのなら、どこへ行くのか? その答えを持っているかいないか、それが生きる意味と姿勢を変えていくことでしょう。 さて、あなたの答えは? ※検索エンジン等で 「入棺体験」で検索したところ、この学校は、長野県の飯田女子短期大学看護学部であることがわかりました。もっと詳細をしりたいのですが、残念ながら今のところ不明です。どなたかご存知の方がありましたら、教えて下さいm(__)m |
|
| 「お」へいく? | |
| TABI-NO-SHIORI (人生ナビ>サービスエリア) | 人生の栞のもく じを表示する |
| ■ 「お」は、どこへいく? | |
| boumoriがPTAの研修会での講演の内容を聞かせてくれました。 「現代の若い世代で、包丁のない家庭が増えている…」とのこと。 その理由は、インスタント、冷凍、レトルトの食品には、包丁は不要。 ハサミひとつがあればいい…から。 だから、現代は 「おふくろの味」から「お」が消えて、 「ふくろ(=パック)の味」になってしまったといいます。 (ココまでの話は、私も知っていました) では、その「お」はどこへ行ったのか? なんと「しつけ」の上にくっついて、「おしつけ」になっているといいます。これには、まいりました。 「子どものため」と言いながら、「親の思い通り」を願っていた自分と重なってしまいます。 さて、蛇足ながら、日本の奥様方、ご主人に 「あなた、おビール 飲む?」 などと言わないで下さいね。これは、誤った日本語です。 基本的に外来語(カタカタの単語)に、「お」の字はつけません。 だって、おピーマン・おトマト・おキャベツなんて 言わないですよね。 なのに、ビールには「お」をつけて、ご主人には「飲む」か?と 「お」なしで尋ねて…、ん〜、どっちが大切なんでしょう? 今晩からは、 「あなた、ビール お飲みになる?」 でお願いします。 |
|