(道しるべ)
| 日日の暮らしの中で、「なるほど」とうなづかされたり、 「う〜ん」と考えさせられる言葉に出会うことがあります そんな言葉のひとひら(言の葉)を、お寺の門前の掲示板に書き出しています。 選考基準は、まったく私(住職)の独断です。 このHPには、コメントつきでその一部を紹介させていただきます。 |
| 闇 | |
〔42〕 「オマエが悪い!」 と 指差す 残りの3本は 自分の方を向いていた |
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これは、あえて解説は やめましょう。 実際に手を出して 相手を指差して見てください。 なるほど こっち向いてます。 ※ この言葉は、どこかのお寺の掲示板で見かけたものですが、 実は うろ覚えなんです。 どなたか 正解をご存知の場合は こちらへ ご連絡いただけら有難いです。 |
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| 闇 | |
〔41〕 千年の闇も 一本のマッチの光で 破られる |
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千年の間 ずっと暗闇に閉ざされていた洞窟を明るくするには やはり 相当の時間がかかるか… いや、そんなことはありません。 冷たい水の温度を上げて お湯を沸かすのとは違います。 たとえ 一億年の闇であっても、それは光によって 一瞬に して 打ち破られます。 長い長い間の迷い(闇)の中にあった私が 阿弥陀仏の真実の教え(光)にであったそのとき直ちにすくわれる(明るくなる)のです。 |
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| ひらがな法話 「闇 (やみ)」もご覧下さい | |
〔40〕 人間、みんな 裁判官 他人は有罪 自分は 無罪 |
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門前の掲示板に貼ってあったとき、見た人が 「ニヤリ」と苦笑いを浮かべていたのが印象的でした。 私たちは どうやら、いつも 「自分は正しくて、他人が間違っている」という思いの上に立っているようです。 他人が失敗すると、 「あいつはダメだ」 「なんてことをするのだ」 と容赦なく責めます。 反対に自分が失敗すると、 「あの時の状況では 仕方なかった」 「まああの位で済んでよかった…」 などと情状酌量、万全な弁護団が動いて、見事に 無罪 です。 |
![]() ■ 門前の掲示板 の言葉 ■ この字は お寺の2男坊(中2)に書かせました。 住職(ONSAI)よりも 字が上手ですので、「書いていただきました」という方が正しいかもしれません…(^^ゞ |
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他人のときには 情状酌量の余地はなく、弁護人を認めず、「悪いものは悪い」と 有罪が 最初から確定しているようです。 この言葉を読んだ人が 苦笑いをされたのは、まさに自分の姿を言い当てられたと感じたからでしょう。 しかし、当然のことですが、他人が裁判官で裁く法廷では、「他人が無罪」で「自分(私)が有罪」となります。 そしてそれは 誰もが 自分の都合に合わせて自分で書いた六法全書をもとに「判決」を下すわけですから、他人が裁判官で自分が被告の場合は いつも「不当判決」です。 教えに遇う(あう)とは、こんな不当判決に 裁き裁かれるのではなく、 すべてを丸ごと包んでいて下さる 仏さまの教え=真実の法=に照らされて 自分のあり方が明らかになっていくこと でしょう。 それまでは、自分が自分中心の判決を下していたことさえも、気づかずにいたのでした。 それに気づかされたとき、すでにもう 仏さまの光の中なんです。 |
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| 目はかすみ | |
〔39〕 「おれ、窃盗やってた」 …いいんだよ。 「わたし、援助交際やってた」 … いいんだよ。 「おれ、イジメやってた」 … いいんだよ。 「わたし、シンナーやってた」 … いいんだよ。 「おれ、暴走族やってた」 … いいんだよ。 「わたし、リストカットやってた」 「おれ、カツアゲやってた」 「わたし、家に引きこもってた」 … いいんだよ。 昨日までのことは、みんな いいんだよ。 「おれ、死にたい」「わたし、死にたい」 … でも、それだけはダメだよ。 まずは今日から、水谷と一緒に考えよう。 … 生きてくれさえすれば、それでいいんだよ。 |
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不登校、ひきこもり、リストカット、薬物乱用… 12年間夜の街を回り、5000人の生徒と向き合った「夜回り先生」こと、水谷修先生の言葉です。 そして先生は どの子に対しても、「先生が一緒にいるよ」と声をかけます。 なんだか阿弥陀さまのおこころを聞いたような気がしました。 阿弥陀さまも「立派な人になりなさい」「いい人間になりなさい」とは 言われない。 「そのままでいいんだよ」 「立派な人には、なかなか なりきれない」そんな「わが身を知れよ」 だからこそ 私がここにいるよ…と。 水谷先生は、今の社会は「だめだよ」という言葉が満ちているといいます。 会社で「何やってんだ」と怒鳴られた父親が、家では妻に「風呂も沸いてないのか!」。イライラした母親は子供に「こんな点数じゃダメ!」。すると、子供は…? ついつい「ダメじゃないか!」といっていまう私だから、余計に「いいんだよ」が心にしみたのかもしれません。 「いいんだよ」と丸ごと認められるからこそ、 「そのままでいい、といわれて このままではいけない、と思うようになった」 という 言の葉 〔17〕の善巧寺ご住職の言葉が出てくるのだと思います。 「夜回り先生」の本は ここ から 求められます。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4921132542/250-3261213-3056207 ほかにも 検索エンジンで 「夜回り先生」をキーワードで検索すれば こんなサイト ↓ http://www.sanctuarybooks.jp/mizutani/ ほか たくさんの情報があります。 |
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| 目はかすみ | |
〔38〕 だれにも負けることが できる人は 天下無敵だ |
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| 門前に掲げる言葉の候補をいくつか並べたとき、長女が選んだ言葉です。 相手の素晴らしさ(勝ち)を認め・讃える(負ける)ことができる人は、もう勝ち負けを超えています。 勝ち負けを超えているから、負けることも ありません(無敵です)。 いつまでも、負けにコダワリ、言い訳したり、勝った相手を認められない間は、勝っても負けても敵ばかりです。 今、勝負を生死に置き換えてみます。 生きることだけにこだわって 死をごまかし、認めない立場は、本当に生きる意味に出会えない。 死をしっかり見つめて問うとき、生死を超えた死なないいのち(無量寿)にであうことができるのでは…。 そんなことを考えました。 |
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| 目はかすみ | |
〔37〕 ■ 千の風になって ■ 私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています 秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る 私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています あの大きな空を 吹きわたっています |
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この詩を読んで、私はすぐに この「言の葉」で紹介させていただいている 田久保園子先生の「風船の話」を思い出しました。 その中の「大きな大きないのち」が、ここでは「千の風」と表現されるのでしょう。 そういえば、日曜学校(子供会)の指導をして下さった先生が 教えて下さった歌に「仏さま」という題で、こんなのがありました。 ♪仏さまは どこに どこにいらっしゃる 春は花咲く 枝のもと 夏は 水辺の 草のかげ 秋は 空行く 雲の上 冬は 窓打つ 雪の中 いつも どこかで 見ていて下さる いつも なにかを 教えて下さる 仏さまは あれあれ あそこに いらっしゃる ♪ 「死んだらしまい」ではない。大いなるいのちに帰らせていただく。 念仏の道でいうところの「浄土」をいただいた生き方を 理屈ぬきで 味わえる詩だと思いました。 |
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| ※ ※ ※ これは朝日新聞『天声人語』が紹介し、大反響となった作者不明の英語詩(新井 満訳)です。 米国、同時多発テロの一周忌で、父親を亡くした11歳の少女が朗読したり、IRA(アイルランド共和軍)のテロで命を落とした24歳の青年が、“私が死んだときに開封してください”と両親に託した手紙の中に、この詩が入っていたといいます。 Web上でも「千の風になって」をキーワードで検索すれば かなりあります。ここも↓ http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062121247/249-8868152-8554746 |
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| ちなみに 原文は次のとおり I am a thousand winds Author Unknown Do not stand at my grave and weep; I am not there, I do not sleep. I am a thousand winds that blow. I am the diamond glints on snow. I am the sunlight on ripened grain. I am the gentle autumn's rain. When you awaken in the morning's hush, I am the swift uplifting rush Of quiet birds in circled flight. I am the soft stars that shine at night. Do not stand at my grave and cry; I am not there, I did not die. |
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| 目はかすみ | |
〔36〕 目はかすみ 耳は 蝉鳴き 葉は落ちて 霜を頂く 歳の暮れかな |
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これは 博多の禅僧・仙高フ歌と 聞いています。(未確認) かすみ(=春霞)・蝉鳴き(=耳鳴り)・葉は落ち(=入れ歯)・霜(=白髪)…と 老いゆく姿を春夏秋冬の中に見事に読み込んであります。 でも、これら(霞・蝉・落ち葉・霜)はみんな サインです。私に「そろそろだぞ…」「近いぞ…」と知らせてくれるサインです。 しかし、そのサインが出ているのに うかうかと忙しい忙しいとドタバタしています。 電車の車掌さんが、「まもなく終点です。お忘れ物はございませんか」と聞いてくれるように、人生の終点は「そろそろ近い」のです。身体からのサインもお見逃しなきように。 「人生の忘れ物」は ありませんか。 [メモ] 仙香iせんがい): 江戸時代、良寛・白隠に並ぶ軽妙洒脱な臨済宗の禅僧。 臨終の際に「死にともない、死にともない」と言ったとか。弟子たちはあわててその真意を問うたところ 「ほんまに、ほんまに」 と答えたと伝えられています。 ※仙崖 や仙涯 は間違い。仙 が正解。 |
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| ひらがな法話 「わすれもの」 もご覧下さい | |
| いただきます | |
〔35〕 「いただきます」と 言って 食べるのが 「食事」 言わずに食べるは 「エサ」 |
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| ある小学校では給食の時、「いただきます」と言って合掌するのは、宗教儀礼であるという理由で、禁止されたと聞きました。 じゃあ、「いただきます」の代わりは、といえば 先生が「ピー」と笛を吹いたり、「ドン」と太鼓を鳴らすとか…。 なんだかクマ牧場のクマが 目の前のエサを我慢して、飼育員の笛を合図に エサを食べ始める場面が思い出されます。 そうそう、街中のレストラン・ファーストフード店に言ってみて下さい。「食事」の時間に エサを食べている人たちが いっぱいいます。<(_ _)> |
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| ひらがな法話 「お命 いただきます」 もご覧下さい | |
| 人間は 耳が二つに | |
〔34〕 幸せだから 感謝するのではない 感謝できることが 幸せである |
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| いい言葉だなぁーと思って調べてみると、結構いろんなサイトで見つけることができました。ただ、後半の部分が 「感謝するから幸せになれる。」 「感謝しているから幸せなのです」 という言い方でした。これでは 感謝が「幸せの条件」になってしまいます。 そうではなく、感謝ができる「今」、「ここ」、「自分」を引き受け、認めていけることが、すでに本当のよろこびの中(幸せ)であるのだと思います。 そう、だから世界一の幸せ者になる方法 は、ただ一つ! 「世界で この私ほど 果報者(しあわせな者)はありません。」と、よろこべたら、その人は 間違いなく世界一の幸せ者です。 これは、決して「ものは言いよう、思いよう」という意味ではありません。逃げることも代わることもできない自分の人生の中で、「今」を、「ここ」を、「自分」を引き受けていく時、はじめて言うことの出来る言葉でしょう。 反対に、世界一 不幸せになる方法 も簡単。 「世界中で 私ほど 不幸な者はいない」という人が、きっと 世界一の不幸者でしょう…。 |
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| 人間は 耳が二つに | |
〔33〕 人間は 耳が二つに 口一つ 多く聞いて、少し言うため |
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| 考えてみれば(いえ、考えなくても…ですが) 「飲む」「食べる」「歌う」「話す」…とたくさんの役目(はたらき)を もっている口は、たった一つしかありません。 そして、ただ「聞く」という役目しかない 耳が二つあるのは、不思議なことです。 (ここで、耳にはメガネをかける役目がある…なんて言わないで下さい) つまり、「話す倍ほど、聞きなさい」ってことかもしれません。 ついつい、「聞く倍ほど、話す」のが、ワタシです。 まあ、それほど 「聞く」ことが大切であり、また難しいってことでしょう。 「自分」=我=を置いて、素直に耳を傾けて聞く…。 これほどたやすく、それでいて難しいことはありません。 |
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| 人生の栞 → 耳をすまして… へ | |
| おかげさま | |
〔32〕 年令が高くなると、若さから解放される。 今、その自由感に るんるん(岡部伊都子) |
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| 若いことは「よいこと」で、老いることは 「悪いこと」。 健康は 「よく」て、病気は「駄目」。 こんなふうに 良し悪しを分けて それにこだわり・とらわれることを仏教では分別(ふんべつ)といいます。 でも、仏さまの智慧は、分別ではなく無分別です。「若さ」と「老い」、「健康」と「病気」、それらを分けて良し悪しをいうのではなく、それぞれの中に生きる意味を見出し、引き受けていく教えです。 若いときも 老いた時も、健康であっても病気になっても、自分の「今」をしっかりといただいていける道が 仏教です。 「老い」や「病気」を否定し、「若さ」や「健康」を追い求めている人があって、その人自身が 年を取り、病気になったならば、そのときの 辛さ・苦しさは 、はかり知れないものでしょう。 この岡部さんの言葉は、まさに無分別の解放感があふれているような気がします。 |
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| おかげさま | |
〔31〕 遺産なき 母が唯一の ものとして 遺(のこ)しゆく死を 子らよ受け取れ |
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| これは、岡本太郎の母である岡本かの子の歌だと聞きました。 宗門の行政区域(組)が当寺と同じである寺院の前住職の通夜席で 聞かせていただきました。 お金よりも、家屋敷よりも、親として 本当に子どもたちに身を呈して 教えて(遺して)いきたい真実。すなわち「死」という必ず引き受けていかねば ならない厳しい真実を誤魔化さずにしっかり見据えておくれ。 自分の いのちを 精一杯大切に生きよ…。 そんな 親の願いの強さ・深さを 最後の「受け取れ」という命令形の言葉に 感じずにはおれません。 |
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| おかげさま | |
〔30〕 雨は ウンコの上にも おちなければなりません イヤだといっても ダメなのです だれも かわってくれないのです |
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| これは、野村康次郎という方の詩です。 『仏説大無量寿経』にある 「人在世間・愛欲之中・独生独死・独去独来・」 (人は世間愛欲の中にありて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る) 「當行至趣・苦楽至地・身自當之・無有代者」 (まさに行きて苦楽の地に至り趣くべし、身自らこれに当たり、代わるものあることなし。) という言葉どおりの詩です。 「身自当之、無有代者」とは、まさに、 私たちが生きていく、すべてのことは、自分自身がこの身で引き受けていかねばならなず、誰も代ってくれる者はないということです。 私のいのち(人生)を私の代わりに生きてくれる人はありません。 自分の人生は、逃げたり、ごまかすことのできません。 それならば、いただいたいのちを いのちいっぱい 生きてゆきたい…。そう思わせてくれる詩です。 |
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| 「小さい勇気をこそ」 | |
〔29〕 「小さい勇気をこそ」 東井義雄 人生の大嵐がやってきたとき それがへっちゃらで乗りこえられるような 大きい勇気もほしいにはほしいが わたしは 小さい勇気をこそ ほしい 私のたいせつな仕事を後まわしにさせ、 忘れようとする小さい悪魔が テレビのスリルドラマや漫画に化けて わたしを誘惑するとき すぐそれがやっつけられるくらいの 小さい勇気でいいから わたしはそれがほしい もう五分くらいねていたっていいじゃないか、 けさは寒いんだよと あたたかい寝床の中にひそみこんで わたしにささやきかける小さい悪魔を すぐやっつけてしまえるくらいの 小さい勇気をこそほしい 明日があるじゃないか 明日やればいいじゃないか 今夜は もう寝ろよ と 机の下からささやきかける小さい悪魔を すぐ やっつけてしまえるくらいの 小さい勇気こそほしい 紙くずがおちているのを見つけたときは 気がつかなかったというふりをして さっさと行っちまえよ かぜひきの鼻紙かもしれないよ 不潔じゃないかと呼びかける 小さい悪魔を すぐやっつけてしまえるくらいの 小さい勇気をこそ わたしは ほしい どんな苦難ものりきれる 大きい勇気もほしいにはほしいが 毎日 小出しにして使える 小さい勇気でいいから それが わたしは たくさんほしい それに そういう小さい勇気を軽べつしていては いざというときの 大きい勇気も つかめないのではないだろうか。 |
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| 東井義雄先生の詩です。 かなり 長めですが、あえて 全文掲載させていただきました。 この「小さい勇気」は、2003年、 日日あらたに (ONSAI)のテーマである、「ちょっとだけ」 に通じるものと思いました。 |
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| 住職ノート 「ちょっとだけよ」 へ | |
| おかげさま | |
〔28〕 「ぼくの舌 動け」 といったときは もう動いた 後や ぼくより先に ぼくの舌 動かすのは 何や? |
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| これは、ある保育園での男の子(5才)のつぶやきだそうです。 私が眠っている間も、呼吸は続けられ、心臓は「年中無休24時間営業」で、はたらきづくめで私のいのちを支えてくれます。 目も鼻も口も、私の意志とは関係なく はたらいてくれます。 私が忘れっぱなしでも、決して忘れることない はたらきの中に 私の今がありました。 生きているつもり…でしたが、どうやら 「生きている」のではなく、「生きさせてもらっている」という方が本当のようです。 |
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| おかげさま | |
〔27〕 一向宗(浄土真宗)の門徒は、 弥陀一仏を信ずること専らにして 他の仏神を信ぜず、 いかなることありても祈祷などすることなく、病苦ありても 呪術・お守りをもちいず。 みなこれ親鸞氏の力なり |
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| 江戸時代中期の儒学者・太宰春台が『聖学問答』の中で真宗門徒の姿勢をこのように表現してあります。大切な二度とない人生を 占いや呪術・迷信に振り回されることなく、いのちいっぱい生き抜いていけるのが、浄土真宗門徒のバリア・フリー・ウェイ(無碍の一道)です。 | |
| おかげさま | |
〔26〕 たとえ 僕が死んだとしても、姉さん、泣きなさんなよ。 僕は死んでも、どこへも行かないよ 死ねばすぐにナモアミダブツになって、姉さんのところへ来るからね。 どんなに仲がいい姉弟でも、身体のある間は、離れているけれど、 僕が仏になったら、いつでも姉さんといっしょだよ。 さびしいときは、「ナモアミダブツ」、「ナモアミダブツ」と、 僕の名を呼んでよ。僕は、ナモアミダブツになるのだから…。 |
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| 岩田アサオ先生がご法話の中でご紹介して下さった、20代で往生された弟さんの言葉です。「僕」と「姉」という文字を自分なりに他の人(どちらかは自分自身)に置き換えると、とても
有難いです。 |
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| おかげさま | |
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| 「おかげさま」という言葉を、私たちは案外、簡単に使っています。 そして、それも自分の都合のいい時だけに 「おかげさま」だったりします。 気がつかない(知らない・わからない)ところまで御礼を言うことが「おかげさま」です。 |
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| ひらがな法話 「おかげさま?おひなたさま?」 へ | |
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| 浄土真宗のご門徒研修会資料の表紙に あった言葉です。 「お寺にお参りして、お聴聞(教えを聞く)しませんか…。」 「いやぁ、ちょっと 忙しくて なかなかヒマがありません…(^^ゞ」 …こういう時に、いい言葉ですね。 普段は 「参る気」⇒「やる気」に変えて 味わっています。 |
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| 通りがかりの お寺の掲示板にあった言葉です。 そこでは、「バケツ」ではなく「容器」となっていましたが、私が 西楽寺版としてアレンジさせてもらいました。 これも、下の詩と同様、解説抜きで お好きなように味わって下さい。 |
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わたしが両手をひろげても |
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ご存知、童謡詩人 金子みすず (1903-1929)の詩です。 書店に「みすずコーナー」が設置されたり、ドラマ化されたりして近年にわかに注目を浴びました。小学校の教科書にも採り上げられました。 「金子みすず」で検索すれば、膨大な数のサイトがヒットします。 あるサイトには、この詩について「感想は書けば、詩が色あせる…」ありました。 浄土真宗のお坊さんは すぐに 「うん、これは 『仏説阿弥陀経』の青色青光・黄色黄光・赤色赤光…の心だ」といわれます。 たしかに 感想・解説は 書かない方がいいかも…。 「みんなちがって みんないい」 ほかにも、すばらしい詩がたくさんあります。 まだのお方は、是非 検索を…。 |
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| 風船の話 | |
〔21〕 「パンパンに膨らんだ風船も、針をちょんと当てると、 パンとわれてしまうけど、中の空気は外の空気に 合流するだけだよ。 いのちも同じだよ。大きな大きないのちの中に、人間 ひとりひとりのいのちも 外に出ていくだけ。身体が亡く なっても、形は変わっても、中のいのちは外のいのちと 合流するだけ。 そして、大きないのちがまた新しいいのちを創るのだよ。」 |
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| 田久保園子先生(東京ビハーラ副会長)講演録(鳥取・光賢寺だよりに掲載)より 田久保先生は、上の言葉につづいて 「病に伏せっていた私に、父が話してくれたことで、怖い怖いと思っていた死の見方が変わった。」 と述べておられます。 |
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〔20〕 何のために 生まれて / 何をして よろこぶ 答えられないなんて / そんなのは いやだ 忘れないで 夢を / こぼさ ないで 涙 だから 君は 行くんだ ほほえんで そうだ うれしいんだ 生きるよろこび たとえ 胸のきずが いたんでも (「アンパンマン・マーチ」より) |
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| ご存知でした?あのアニメ「アンパンマン」のテーマソングに、こんな歌詞があったこと。 忙しさの中、生きる意味など考えることなく、目先のことに振り回されている毎日です。 『仏説無量寿経』(意訳)に「人間は急がなければならないことを急ぎもせず、争わなくてもよいことを争っている…」とあります。 さあ、今こそ…。 * * * * * * * * * * * * * * * * TVでは 上の1番でなく 2番の歌詞(→)が流されていたようです。
すると、「愛と 勇気だけが ともだちさ」 に、こだわった人がいまして、「えっ!じゃあ、食パンマンやバタコさんやジャムおじさんたちは 友だちじゃないの?」と言ったとか、言わないとか…。 |
なにが君の しあわせ なにをして よろこぶ わからないまま おわる そんなのは いやだ! 忘れないで 夢を こぼさないで 涙 だから 君は とぶんだ どこまでも そうだ おそれないで みんなのために 愛と 勇気だけが ともだちさ ああ アンパンマン やさしい 君は いけ! みんなの夢 まもるため ![]() |
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〔19〕 辛いという 字がある もう少しで 幸せに なれそうな字である |
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| 星野富弘 花の詩画集「速さのちがう時計」より この言葉の前に、 幸せという 花があるとすれば
その花の つぼみのようなものだろうか
とありました。 |
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〔18〕 世の中は 「こそ」二文字の つけどころ おさまるも「こそ」 みだれるも「こそ」 |
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| な、なんという ヤヤコシイ歌でしょ。 でも、この意味は うなづかされるばかりです。 ヒントは この歌↓ こそこその こそはこちらの ものならず こそはあちらの こそにこそあれ 何? 余計にわからない? そんなお方は、ひらがな法話「風が吹けばこそ」へどうぞ…。 |
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| 〔17〕 アミダさま 僕が僕であることを 認めてくれて ありがとう そのままでいい、と いわれて このままではいけない、 と思うようになった |
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| (富山県 善巧寺 のご住職 雪山俊隆様の言葉です) そうでした。 アミダさまは、私に、 立派になれ、善いことをしなさい、とは おっしゃらない。 なかなか 立派な人には なれません。善いことも できません… そんな「わが身を知れよ…」といわれます。 だから、「そのままでいい」と。 でも、いつしか その言葉に甘えていました。 「そのままでいい」と認めてくださるアミダさまの願いを聞けばこそ、 「このままでは いけない」と 力強く 生きぬくことがことができるのです。 |
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〔16〕歯が抜けて 噛み締める 親の味 |
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| 子を持って知る 親の恩とか 言いますが、 近所のおばあちゃんは 教えてくれました。 「子を持って知らされるのは、親の恩のうちの半分じゃ。 残りの半分は、親を見送らなければ(亡くさなければ)わかりませんよ。」 「歯が抜けて」とは、親を見送るような歳になって…という意味でしょう。 堅いものは 噛めなくなったその時、 噛み締めるものがありました。 |
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〔15〕 人生はすべて 次の二つから成り立っている したいけれど…できない できるけど…したくない(ゲーテ) |
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| さすがゲーテさん。うまいことおっしゃる。 逆を言えば 「できないことをしたがり、したくないことをやらなくちゃいけない」ってことか。 |
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〔14〕 今までは 人のことだと思うたが 俺が死ぬとは こいつたまらん (蜀山人) |
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〔13〕 祈とうやまじないの奴隷から 解放させてくれる生活力こそ ほんとうの現世利益である |
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〔12〕 延命を 祈る間も 減るいのち |
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〔11〕 腹たたば 鏡を出して 顔を見よ 鬼の姿が ただで見られる |
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〔10〕 そのうち お金がたまったら、 そのうち 時間にゆとりが できたなら、 そのうち そのうちと できない 理由を 並べていたら とうとう 何にも しなかった そのうち 人生の幕が むなしく降りる あの道 この道 日が暮れる 今来た この道 帰れない (相田みつを) |
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| ほんとうは、もっと長い詩ですが、掲示板用に短くしてあります。 詩のこころが曲がったかもしれません。(相田さん、ゴメンナサイ) <PS> みつけました、ホントの「そのうち」の詩 そのうち そのうち お金がたまったら そのうち 家でも建てたら そのうち 子供から手が放れたら そのうち 仕事が落ちついたら そのうち 時間のゆとりができたら そのうち…… そのうち…… そのうち…… と、 できない理由を くりかえしているうちに 結局は何もやらなかった 空しい人生の幕がおりて 頭の上に 淋しい墓標が立つ そのうちそのうち 日が暮れる いまきたこの道 かえれない |
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| ひとつ前へもどる(現在地「おや、もう、こんな時間?」からきた場合) | |
〔9〕 良いことを しようと思えばできる 悪いことを すまいと思えばやめられる これを 思い上がりという |
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| はい、思い上がってました | |
〔8〕 食わねば 生きられぬ では、 食っていれば 死なぬか |
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| いえいえ 、食べていても、死にます 人生の栞 人間の死亡率は? へリンク |
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〔7〕 そうだよ。人生に もともと意味なんてないよ。 だから、あんたが人生に意味を プレゼントすればいいじゃない。 |
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| 『ブッタとシッタカブッタ3』(小泉芳宏著)の中の言葉 | |
| なんだか、肩の力を抜いて生きていける言葉だと思います さらに、この本の終わりに次のような文がありました 人生に意味がないということは あらゆる意味を持っているということ 意味がないことを知ったら 意味をプレゼントすればいい いつでも意味がないことを知っているから大丈夫 |
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〔6〕 うちの商店会では、 『失敗』と書いて、『経験』と読むんだ。 つまり、失敗をしないということは、 経験を積まないということ。 |
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| 『五体不満足』乙武洋匡著 の中で早稲田商店会会長の安井さんの言葉 | |
| 石につまづいたら、つまずいたその石を踏み台にして、もう一段
高く上がればいい 仏教は、つまづいたら つまづいたことを明らかに見つめ、引きうけていく教えです。 それを言い替えてあるような言葉です。 ちなみに、同様の言い替えを新聞記事 で見つけました どんな国にも企業にも、いろんな問題がある。 「それを指摘する際にプロブレムと言わず、チャレンジと言いなさい。」 英語を母国語とする人はよく日本人にこう忠告する。…… 克服すべき問題を「挑戦」という意味を持つ単語を使うと話が否定的になりすぎず、 前向きな勢いが出るから不思議だ。 日本経済新聞(平成12年8月5日付)の「春秋」欄 |
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〔5〕 ガンの告知を受けた人が、死の宣告をされたと悩み恐れる しかし、人は皆、生まれた時に死を宣告されているのだ |
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| 目から鱗が落ちました。 あるお寺の行事案内にあった言葉です。 この文に続いて、 死を避けて、ごまかして生きているから、死ぬのだと知ったとき悩み恐れるのだ。 そこで念仏に遇えればよいが、平生に遇っていなければ心もとない。 とありました。 |
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〔4〕 ともすれば 二度のお礼も 欠くるなり 三度の箸は 忘れざる身も |
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| この歌は、先年 西楽寺の報恩講に来られた清岡隆文先生が教えて下さいました。 「二度のお礼」とは、朝夕にお仏壇にお参りし、如来さまにお礼をすることです。 ところが、これがなかなか難しい。 朝は朝で忙しく、夜は夜で気がつけばフトンの中。 でも、朝・昼・晩と「三度の箸」、つまり自分のお腹を満たすことは忘れません。 なぜでしょう?。 答えは一つ。自覚症状があるからです。反対に自覚症状のないことは、忘れます。 自覚症状のないことを続ける方法もただ一つ、<習慣づけること>だそうです。 朝ご飯の前に顔を洗う習慣がある私たちは、洗わずにご飯を食べるのは気持ち悪いものです。 同様に、「仏さまにお参りしないで箸を持つと、どうも落ち着かない…。」 こんなふうになれば、しめたものです。 |
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〔3〕 隣りの家に 蔵が建てば わしの心に 腹が立つ |
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| う〜ん、他人のよろこびを いっしょに喜べない私です 反対に、他人が不幸な時は…。 |
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| ひらがな法話 「みんな うちの子」へ |
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〔2〕 他人(ひと)の悪口は ウソでも 面白い 自分の悪口は 本当でも 腹が立つ |
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| う〜ん、図星ですね。図星 だから 腹が立つんですね 阿弥陀さまの光にあえば 本当の自分が知らされます だから、なかなか お念仏の教えは 耳が傾けられないのです |
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〔1〕 田があれば 田に悩み、家があれば 家に悩む。 牛馬などの家畜や、金銭・財産・衣食・家財道具…、 さては使用人にいたるまで、 あればあるにつけて 憂いはつきない。 … … … … … … また、田がなければ 田をほしいと悩み、 家がなければ 家がほしいと悩む。 牛馬などの家畜や、金銭・財産・衣食・家財道具…、 さては使用人にいたるまで、 なければ ないにつけて、また それらをほしいと思い悩む。 たまたま、ひとつが得られると、他のひとつが欠け、 これがあれば あれがない というありさまで、 つまりは、すべてを取りそろえたいと思う。 そうして、やっと これらのものが みなそろったと思っても、 それは ほんの束の間で、すぐにまた 消え失せてしまう。 (仏説無量寿経) |
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| 西本願寺刊 「浄土真宗 聖典ー勤行集 」にある<まことのことば>にある
仏説無量寿経の現代訳です。 ある法事の席で 拝読したら、若い(?)方が、「うまいこと 言うなぁ」と 思わず 口にされました。 そりゃぁ、「うまい」ですよ。お釈迦さまの真実の言葉ですもの。 |
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