| お命 いただきます |
| お命 いただきます |
▼ このお話は小学生の宿泊研修(サマースクール)の時のものです。 ねぇみんな。どうして、ごはんを食べる前には『いただきます』って言うのかな?別に それを言ったからといって、おかずが一品増えるわけでもないのに…。ねぇ、どうして だろう? じゃ、『いただか』なかったら、つまり食べなかったら、どうなるか考えてごらん。そうだよね、死んでしまうよね。 死ぬというのは、いのちが終わることでしょう。でも、僕たちの食べている魚や肉や野菜にだって、いのちがあるよね。そして、僕のいのちも 魚や動物のいのちも たったひとつのいのちだよね。 ということは、ご飯を食べるっていうことは、僕のたったひとつのいのちを 今日から明日へつなげるために、たくさんのいのちをもらう(いただく)ことなんだよね。見てごらん。お皿の中は全部 いのちだよ。(いのちのないものなんてないんだ) だから、『いただきます』とは、アナタの大切ないのちを「いただきます」ってことなんだ。 『いのちをもらってゴメン、ゴメン』、『アナタのいのちをありがとう』、「いのちをいただきます」っていうことだよね。 ということは、僕のいのち の中には、たくさんの もらった(いただいた)いのちが入っているんだ。だから、もらったいのちの分までしっかり、大切に生きたいね。自分のいのちだから、好き勝手していい、なんてこといえないね。 じゃぁ、次に『ごちそうさま』はどうだろう?漢字で書くと『御馳走様』となるんだ。そしてこの『馳』も『走』もどっちも『走る』っていう意味があるんだよ。 では、考えてみよう。僕の一度の食事のために どれだけたくさんの人が走り回ってくれたか…。 お米や野菜を作ってくれた人、それを運ぶ人、売る人・・・。 そのお米を買うためお金は お父さんが働いて持って帰ってくれたよね。つまりお父さんの勤める会社やその会社のお客さんにもお世話になったね。 そして、お母さんが料理をしてくれた。その料理に使う水道・ガス・お鍋などの道具を整えてくれた人たちも 動いてくれたね。 こんなふうに、いろんな人たちが走り回ってくださったおかげで、僕のお腹が一杯になりました、おかげで『ごちそうさまでした』というわけさ。 でも、お友だちの中に、家ではするけど、外食の時は恥ずかしくて『いただきます』を言わないよーという人がいたよ。どうなんだろうね。大切ないのちをもらって、『ありがとう』って言うのと、お礼も言わずに、いきなり食べるのと、どっちが恥ずかしいことなんだろう。 都会の電車では、足の不自由なお年寄りに「どうぞ」って席を譲るのが恥ずかしいからといって、わざと眠ったフリをする人がいるんだって。でも、困った人に席を譲ることと譲らないで寝たフリすることと、どっちが本当に恥ずかしいことなのか、子供だってわかるよね。 どうやら、恥ずかしがらなくてもいいことを恥ずかしく思ったり、本当に恥ずかしいことを恥とも思わないことがあるようだね・・・。 それから お家の食事の時でも、お父さんやお母さんが「いただきます」っていうのを忘れていたら、ちゃんと教えてあげてね。こどもが大人に 教えることがあってもいいんだからね。 じゃ、今日から、ご飯の前には『いただきます!』 |
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| お待たせしました |
| お待たせしました |
| 弥陀成仏のこのかたは 今に十劫をへたまへり お待たせいたしました すみません これは、あるお寺で拝見した、山口県の藤永清徹という和上様がかかれた色紙のことばです。 これは正信掲のご和讃の一首目 弥陀成仏のこのかたは 今に十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり の前半の2句と同じですが、後半は 小さな字で遠慮がちに「お待たせいたしました すみません」と書いてありました。これはどういうことでしょう。 まず、「弥陀成仏」とは、阿弥陀如来(法蔵菩薩)さまが、この私を救うためにご本願を建てられて、その願いを成就されて仏さまになられた(成仏した)ということです 次に、「十劫をへたまへり」とは、阿弥陀さまが、この私を必ず救うと南無阿弥陀仏となってこの私によびかけ、待ち続けて下さって、すでに十劫という、長い歳月が経ったことを言います。十劫とは、時間の長さで、五年十年にことではありません。何億年どころか、思いもおよばぬ、気の遠くなるような長い時間をいいます。 そしてその間、この私は人間に生まれることもなく、地獄や餓鬼、畜生の世界を生まれかわり死にかわり、迷いつづけていました。 しかしながら阿弥陀さまは、その気の遠くなるほどの時の流れの間、ずっとこの私を待ちつづけ、この私が「人間として生まれ、仏法に出遇っておくれ」そして、「お念仏もうす身となっておくれ」と、心配し通しなのでした。 もしも私が、待ち合わせの約束をして、相手が時間を過ぎても来ないー待つーとしたどうでしょう。まずは、イライラするでしょう。そしてだんだん腹を立て、二時間も過ぎれば、待つことを止めてしまいます。(つまり見捨てます) だからこそ、藤永和上は、十却の間待ちつづけて下さった阿弥陀さまに、「お待たせいたしました」と言わずにはおれなかったのでしょう。 そして、どれほど待たされようとも、決して見捨てることのない阿弥陀さまに「すみません」と言葉を続けられたのでしょう。 ふだん、何気なく「♪弥陀成仏のこのかたはァ、ァ…♪」と節回しばかり気にかけて拝読していた自分が恥ずかしくなりました。 今、生まれがたき人間に生まれさせていただき、遇いがたきお念仏のご縁に遇わせていただいたことです。 私にさんざん待たされた阿弥陀さまは、「待ちくたびれたぞ」とはいわれません。「ようこそ、お念仏申す身となってくれた」とよろこんでくださいます。 「おまたせしました。 すみません」という言葉に、私の思いを添えさせていただくならば、「ありがとうございます」とお礼申さずにはおれません。 弥陀成仏のこのかたは 今に十却をへたまへり おまたせいたしました すいません ありがとうございます |
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| 「エライ」患者 |
| 疑わしいので、「信じてます (^^ゞ 」 |
| 「信じること」や「信心」ということを問題にしない宗教はありません。 しかし、私たち浄土真宗では「信じます」とか、「信じています」などと、自分が信じていることを表明したり、させるようなことは、まずありません。 それどころか、「信じています」と 言えば、それは 「疑っていることである」とさえいわれます。いったい、どういうことでしょう?具体的な例で考えてみます。 たとえば、アナタが今、奥さんが作ってくれた味噌汁を手にしているとします。 そして、その味噌汁を飲む前に、お椀の中と奥さんの顔を交互に何度か見比べた後、奥さんに向かって、 「信じてるからね…」と言ったら、どうでしょう。 奥さんは きっと怒りますね。 「何ですか、あなた!毒なんか入れてませんよ。私のことを疑っているのですか!」…と。 これで おわかりでしょう。間違いのない、絶対大丈夫な、確かな相手に対して「信じてます」と念を押したり、確かめたりする必要はないのです。 反対に、疑わしい、何をするか信じられない相手が作った味噌汁ならば、「信じてますよ」と念を押さずには おれないのです。 間違いのない(信頼できる)自分の奥さんが作ってくれた味噌汁だから、「信じているよ」と念を押すことは、いらないのです。 (註:これは、あくまでお互いに愛し合い、睦み合う、良好な夫婦関係であること前提としています…あしからず(^^ゞ ) 今、私たちは、どんなことがあっても、決して間違うことのない、確かな阿弥陀如来さまの お慈悲の中につつまれています。 ですから、阿弥陀さまに対して、「信じています」と念を押す必要はありません。 私が 念を押そうが押すまいが、如来さまの方が 確かなのですから、こちらは、「ようこそ ようこそ」とお任せするばかりなのです。 仏さまに対して、「信じてます」というのは、「疑い」である、というのはこういう意味です。 ですから、南無阿弥陀仏は 阿弥陀さまに対して、「信じています」と伝えることではなく、阿弥陀さまの お慈悲の中につつまれている今を、「有難うございます」と よろこばせていただくお礼であると 私は聞かせていただいています。 ▼ このお話は、何年か前に「石見の才市顕彰法要」にお越し下さった藤田徹文先生がお聞かせ下さったご法話の中で、私がメモに留めたことをもとに書かせていただきました。 |
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| 「エライ」患者 |
| 「エライ」患者 |
| 最近、「エライ患者」が増えている…とお医者さまが言われます。 確かに、「みのも@た」さんや「あるある大@典」などのおかげで、患者さんはずいぶん「エラク」なりました…。 そのエライ患者が、お腹を押さえながら診察室に入って、言ったそうです。 患:先生、私はどうも 肝臓が悪いみたいです。すいませんが肝臓の薬下さい…。 医:えっ?ちょっと待って。肝臓かどうか、わからないでしょう。まあちょっと横になってお腹を見せなさい。 (患者のお腹を押さえながら医師がたずねます) 医:ここはどうですか?…ここは? 患:そ、そこ、そこが痛いんです」 医:ほらほら、ココは肝臓じゃありませんよ。腎臓です。 患者が自分のいい加減な知識で勝手に自分を見立てるとこんな具合です。そんな患者のいうがままに肝臓の薬を出しても、腎臓の病気は治りません。 見立てるは 確かな医術を学んだ医師にお任せした方がよいでしょう。そして、医師から私の病気に応じた薬を処方してもらうのです。 同様に、「ほんとうの自分」も、自分で「身立て」たのでは、出会えません。自分中心というアテにならない物差しで見立てるのではなく、仏さまの確かな間違いのない智慧で 「見立て」てもらうとき、自分さえも知らなかった「ほんとうの自分」に出会うことができるのでしょう。 仏(阿弥陀)さまの私に対する「見立て」は、聖典の中には、 「邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」とか「地獄必定(じごくひつじょう)」と説かれます。 ちなみに、阿弥陀さまからチラッと見せてもらった私のカルテには、「無自覚性自己中心症候群」ならびに「不治癒型悪性傲慢炎」とありました。 そして、病気に応じて薬を与えるように、まともな修行もできず、心からの善いこともできない私を見抜いた上で、この私ために処方して下さったのが ナモアミダブツというお念仏です。 ところが、エライ患者は その薬をすぐには飲みません。まずは薬袋を見て、 「何々?この成分は、デキサメタゾン、トリアムシノロン、パラメタゾン……」 …しかし、どれほど薬の成分を分析しても、薬は それを飲まなければ病気は治りません。 南無阿弥陀仏も同じです。南無とは? 阿弥陀とは?…と、どれほど知識で理解しても、私が迷いから逃れることはありません。薬を飲むように、まず口に、ナモアミダブツ、ナモアミダブツと お念仏させてもらいましょう。 きっとその中に「わが身を知れよ」と私を心配し続け、よび続けて下さる仏さまの願いと出会わせていただくことでしょう。 |
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| みんな「うちの子」 |
| みんな 「うちの子」 |
| 若いお母さんが、赤ちゃんを予防注射に連れて行ったときのことです。母子共に初めての経験なので順番を待つ間に、前の人の様子をうかがうように見ていました。 まず、赤ちゃんを前向きに抱いて膝の上に乗せて腕を出します。つづいて脱脂綿でアルコール消毒。そして、いよいよ注射器の針が赤ちゃんの小さな腕に刺さったその時です 注射をされた赤ちゃんは、驚きで目をパチクリ。ところが、支えていた母親の方が、何とも痛そうに顔をしかめているのです。「針がささったのは赤ちゃんなのに…」と思っていると、次の母親も同じように痛そうな顔をしています。 やがて順番が来て、いざ自分の子に針が刺さると、やっぱり自分も思わず痛そうな顔をしてしまいました。子を思いやる母の心とは、このようなものでしょう。赤ちゃんに針が刺されば、我が子と同じように、いや、それ以上に痛みを感じているのです。 これは如来さまの慈悲の心とよく似ています。『異体同心』という言葉があるように、身体は別々で異なるのに、心は同じなのです。「つらいだろうね」と一緒に泣き、「よかったね」と一緒によろこんで下さるのです。 しかしがら、我々は共に悲しんだり、共によろこぶことは、なかなか出来ません。それどころか『隣りの家に蔵がたてば、わしの心に腹がたつ』というように、他人の喜びをいっしょによろこべないのが私の姿です。 また、母親の心と如来さまの慈悲はとても「似ている」けれど、「同じ」ではありまん。なぜなら、母の思いは、自分の子ども、つまり我が子だけへのものです。「うちの子」だから、可愛いのです。「よその子」だったら、注射の針が刺さっても、痛くはありません。 一方、如来さまの慈悲は、生きとし生くるものすべてに注がれます。「うちの子」だとか「よその子」という区別はありません。 だから、十方衆生 みんな「うちの子」、みんな「わが子」なのです。 |
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| おかげさま? ・ おひなたさま? |
| おかげさま? ・ おひなたさま? |
| もう何十年も前のことだと聞いています。 ある国の王様が日本に来て、文明の素晴らしさに感動されました。とりわけ、蛇口をひねると水が出る水道を初めて見て、その便利さにはとても驚かれました。そして、何を思ったのか、とうとう水道の蛇口をお土産に持って帰ろうとしたということです。 どうやら『水道の蛇口』は、壁にくっつけるだけで、水が湧き出る不思議な『機械』だと思われたようです。蛇口のついた壁の向こうには、水道管があって、それが建物の中を巡らされ、町外れの水源地までつながっていることを知らされてその王様は苦笑されたといいます。 しかし、私たちも、この王様のことを笑えたものではありません。というのも、ある時、日曜学校(子ども会)で水道の便利さに感謝しようと相談したところ、各所の『水道の蛇口』をピカピカに磨いて、「ありがとう」と言っておしまいでした。 残念ながら、誰一人として、縁の下や床下に入って、『水道管』にハタキや雑巾をかけた子どもは、いませんでした。水道管は、蛇口まで水を届けるために、暗い所でクモの巣やほこりにまみれながら、じっと横たわっているのですが・・・。 さて、「おかげさま」ということは、この水道管のように日の当たらない、目に見えないところまで、お礼を言う言葉でしょう。蛇口だけを磨いて終りなら、「おかげさま」でなくて、「おひなたさま」です。 そして、そんな日陰のご恩まで知らされるのは、私の知恵ではなく、仏さまの智慧によるのです。ですから、「おかげさま」という言葉は、仏さまの教えがしみこんだ日本語だけのもので、英語やドイツ語にはないと聞きます。 とはいえ、私は案外軽々しく、自分の思いや考えでわかる範囲で、「おかげさま」と言っているような気がします。 お礼だけではありません。犯した罪や過ちを「悪かった」と悔やみ謝るのも、自分のわかる範囲のことだけです。 知らない間に気づかず犯した罪は、謝る事も、反省することもありません。知っている範囲で感謝して、わかっていることだけ、お詫びをして、それで済んだと思っているのが、私のありさまでした。 私の思い・考えの及ばない、大いなる(不可思議な)はたらき(=他力)の中に生かされている今。 『おかげさま』・・・もう一度深く味わいたい言葉です。 |
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| シッポ |
| シッポ |
| 我が家の愛犬「ゴン」を見ていていると、気の毒になります。 「おまえはシッポがあるために、ウソがつけないなぁ」 喜んでいるのか、こわがっているのか、シッポをみれば一目瞭然です。 人間にシッポがなくてよかったとつくづく思うことがあります。 もしも、人間に犬のようなシッポがついていたらどうでしょう? 怖そうな顔をして、肩で風をきって歩くオニイサンのシッポが、股の中に巻いていたり、 お通夜の席で「お気の毒です…」とお悔やみの挨拶をしている人のシッポが左右に勢いよく振れていたりして…。 でも、幸か不幸か、人間は 尻尾がないので 心の中まではわかりません。 では、シッポの代わりに、テレビをつけてみたらどうでしょう。 思っていることや考えていることが、文字放送で映るテレビを。 それも胸の真ん中あたりに…。 …もしも、こんなテレビがついていたら、私は朝起きた時からテレビの画面を隠して「おはよう」って言わなきゃならないかも…。 思いますに、「心の中が見せられるものなら 見せて上げたいよ」なんて言葉は、それが見せられないから、言えるのかもしれません。 親鸞さまは 「こころは蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり」(自分の心の中は恐ろしい毒をもった蛇や蠍のようだ)と言われました。 阿弥陀さまは、そんな私の上辺だけでなく、私の心の奥底まで見抜いた上で心配して下さいます。私以上に私の真実の姿を知りとおしていらっしゃるからこそ、「放ってはおけない」と立ち上がって下さいました。 「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」 お念仏は、そんな「わが身」を知らせて下さる、「心の中の実況中継」なのかもしれません。 |
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| そんな罪とは つゆ知らず |
| そんな罪とは つゆ知らず |
| ある時、一人の若者が老僧に、 「俺は今まで、悪いことをしたことはない」と言いました。 すると、老僧は若者に 言いつけます。 「バケツに一杯になるほどの小石を集めてくるように…」と。 若者は、庭じゅうから、小石を集めました。 さらに老僧は、 「このバケツ一杯分と同じ位の重さの大きな石を一つもってきなさい」 と言いました。若者は庭の端から大きな石を運んできました。 そして今度は 「よし、では その大きな石をもとの場所へ戻してきなさい」 と老僧がいいました。若者はしぶしぶ石を元の場所へ返しました。 つづけて 老僧は命じます。 「では、このバケツの中の石を みんなそれぞれ、元の場所へ戻して来なさい」 と。これには さすがの若者も黙っていられません。 「この小石のあった場所を いちいち覚えてなんかいませんよ。元に戻すことなどできません。」 すると、老僧がいいました。 「お前の犯してきた罪も同じである。警察のお世話になるほどの大きな罪なら、忘れもしまい。 しかし、バケツの小石のように小さな罪を重ねてきたことは身に覚えがないものである。 バケツの小石でも集めれば、大きな石と同じ重さになるように、お前が気付かずに犯してきた罪は とても重たいものである。」と さて、ここで 質問です。、 [A]罪の重さを「知らずに犯した罪」 [B]罪の重さを「知った上で犯した罪」 どちらの方が 刑罰が重いでしょうか? もちろん、知った上で犯した場合が 重い罪となります。ただし、それは法律や道徳に照らしたときの場合です。 しかし、仏さまの教えに照らしたなら、「知らずに犯した罪」の方が重罪です。 なぜなら、「知った上で犯した罪」は犯した時点で罪の重さに気付き、自分の悪業を自覚しています。ところが、「知らずに犯した罪」は、罪を罪とも思わず、自分は悪くないと省みることがありません。 この「知らずに犯した罪…」を自らに問うとき、私の本当の姿が 思い知らされるのかもしれまん。 ※ここでの「老僧と若者の話」は、私がどこかの本で読んだ記憶をもとに書いたものですので、話の中身が歪んでいるかもしれません。どなたか、確かな出処をご存知の方がありましたら、お手数ながら、お知らせくだされば幸いです |
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| 無 言 の 行 |
| 無 言 の 行 |
| ある時、四人の僧が一本のローソクをまん中に置いて、無言の行を始めました。無言の行とは、その最中は、口から声を出してはならない、つまり話してはいけない…という行です。 やがて、一日が過ぎて夜になりました。夜風が吹き、戸がカタカタ揺れます。しかし、気を散らさずに黙っています。やがて、すきま風でロウソクの炎が揺らぎます。心も少し揺らぎます。ですが、口を開いてはなりません。ところが、強めの風が吹いたとたん、ローソクが消えてしまったのです! 「あっ、火が消えた!」 思わず、一人の僧がと言ってしまいました。 すると、もう一人の僧が、 「こら、今は しゃべっては いけないのだぞ」 と注意しました。 そして、別の僧が、 「『しゃべるな』 といいながら、そう言うお前がしゃべっているではないか!」 と、やはり、しゃべってしまいました。これで、三人とも無言の行は失格です。 そこで、ずっと黙っていた最後の一人が、 「結局、しゃべらなかったのは、私だけだ」 と言いました。つまり、全員失格でした。 これは、鎌倉時代の『沙石集』(無住一円著)にある説話を参考に、ちょっとアレンジ(脚色)したものです。(どうやら、落語にもあるらしい) こんなふうに、私たち人間は、他人のことはよくわかるが、自己自身のことは、なかなかわからないものです。でも、自分のことを一番よく知っているのは、自分だと思っています。自分の目で自分を見ることは、決して出来ないのに。 自分のことは、「確か」で「正しく」て、その思いを離れられない。だから、その自分にとらわれて、周りの人(自分以外)を責めてしまう。善い事をしたら、その善い事にとらわれて、それで仏さまに近づいたと思ったり、善い事をしていない人を見下げたりします。 「南無阿弥陀仏」とは、そんな思いや我執(とらわれ)に縛られている私に対して、 そういう「思い」や「とらわれ」こそ、一番危ないよ ほんとうの「わが身」を知れよ… と、はたらきかけて下さっているのです。 |
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| 風が吹けばこそ… |
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こんな歌が あります。 3世代同居のご家庭を想定して 具体的に考えてみます。 すると、若いもんも 負けちゃいません。 ところが、こそのつけどころが替わって、 ところで、「風が吹けばこそ、旗は美しい」という言葉があります。 青空を背に 美しく はためく旗は、高い場所で強い風をまともに受けていればこそ、でした。 PS A相手につけたら おさまるこそを 自分側に とってくる人を「こそ泥」というそうです…。(^^ゞ |
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| 手を合わせて、請求書? |
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しかし、この「請求書」の「明細」を見ますと、自分勝手な都合のいいことばかりが書かれています。というのも、ウチの子が合格するということは、間違いなく よその子が一人落ちるということです。わがチームが勝つということは、同時に相手が負けるということです。それに、相手だって「請求書」を出しているかもしれません。 その人は、それまで病気知らずの、とても元気な人でした。ですから、逆に身体の弱い人を見ると、「だらしない奴」「怠け者」「すぐ休む横着者」だと見下していたそうです。 ところが、この度の入院で、健康の有難さ、家族や周りの人にどれだけ世話になっているのかを思い知らされたといいます。そして、病気を経験した今では、同じ病気の人の痛みがわかるようになり、今までの自分が恥ずかしくなりました。これからは、少しずつでも優しい言葉が言えるような気がします。」と笑って語って下さいました。 つまり、「この病気のおかげで、私は大切なことを教えられました」 他の人と代わることも、代わってもらうことも私の人生ですもの、せめて、請求書の半分くらいは、領収書を発行したいものです。ナモアミダブツは、そんな私のいのちを阿弥陀さまの願いの中に、いのちいっぱい生き抜かせていただきます」という領収書です。 |
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| 何でも「鑑定」? |
| あるご法座で講師の先生が、『なんでも鑑定団』というテレビ番組を取り上げていらっしゃいました。 お話を聞いて、それまで何の気なく、おもしろい番組だと思ってた私は考えさせられました。ご存知のように、この番組では、蔵の中から古いものや珍しいものを持ち出して、鑑定する人に「〇〇〇円です」と値段をつけてもらいます。そして、それが高額ならよろこんで、安ければ、ため息です。 つまり、鑑定と称して値段をつけているわけですね。ものの価値をお金という尺度(ものさし)で測るわけです。そして、その金額が高ければ「たいせつなもの」「すばらしいもの」になり、安ければ「粗末なもの」「どうでもいいもの」となります。値段を決めることを値踏みといいますが、なんでも鑑定とは、なんでも値踏みということです。 しかし、なんでも値踏み、つまり、お金というものさしで価値が決められるのでしょうか。 そのご講師は、戦前のセルロイドの櫛を大切にしている女性のお話をされました。彼女は、子どもの時に母親と戦争中の空襲に遭いました。親子で炎の中を逃げ惑ううちに、焼けた柱が倒れてきました。そのお母さんは身を呈してわが子を護もり、そして息絶える前に髪からはずして娘に手渡したのが、その櫛だったのです。 もし、この櫛を鑑定団に出したなら、どうでしょう? 「これは、たしかに戦前のものですが、べっ甲などの高価な材質ではなく、安物のセルロイドですね。はい、三千円」 なんてことになるでしょう。 でも、その女性は三千円どころか、三千万円でも他人に売り渡すことはないでしょう。なぜなら、その櫛はその女性にとっては、母親の形見、いや母そのものなんですから。他人が何千円といおうが、何千万円といおうが、関係なく大切な宝物なのです。 こんなふうに、値段のつけられないものだってたくさんあります。そんなものまで、なんでも鑑定、なんでも値踏み…です。 「なんでも」ですから、最後には自分の前にいる人さえも鑑定する(値段を付ける)かもしれません。月給の多い主人は高値がつくでしょうし、年をとるほど値下がりするかもしれません。知らず知らずに、出会う人やその人のいのちにまで、値札をつけていく…。恐ろしいことです。 ところで、 「損か得か」…人間のものさし、「ウソかマコトか」…仏さまのものさし という言葉があります。(言の葉より) 『なんでも…』の場合は、そのものさしの目盛りが、金額の多少ということになるのでしょうか。 そして、その損得のものさしの目盛りは、「自分の都合」やまわりの状況によって伸び縮みするのです。さらに、私はそのものさしが確かなものであると信じて疑いませんから、も一つ厄介です。 対して、「ウソかマコトか」が、「仏さまのものさし」です。それは、人間のものさしのように他と比べたり、時代が経てば変わってしまうようなものではありません。 残念ながら、生きている限り私たちは損得のものさしを捨てきれませんが、仏さまのものさしで測ってもらえば、その不確かさ、身勝手さに気づくことはできます。 ですから、「仏教の話を聞けば、耳が痛い」と言われる方があります。これはまさに仏さまのものさしで測られた「掛け値なしのほんとうの私の姿」を聞かされるからでしょう。 勝手なもので、ほめられたり、お世辞にしても自分のことを良く言われると悪い気はしません。しかし、耳の痛い話を聞かされると面白くないものです。自分はそれほどじゃない、と他人のこととして聞き流そうとします。 そういう意味で、煩悩というのは、「自覚症状のない心の病気」なのかもしれません。一番よくわかっているつもりの自分のことがわかっていないのですから…。 今、そんな私のほんとうの姿を、私以上に知り通した上で、放っておけないと心配してくださる方がありました。その方が阿弥陀さま、南無阿弥陀仏なのです。 |
| どの道も いっしょ? |
| たまに、こんな質問をされることがあります。 「どうせ 行きつくところ(目指すところ)は、同じなんだから、何宗であろうと、どの宗教であろうと いっしょでしょ!?」 この質問と同じ内容を歌に詠んで… ホントにそうでしょうか?残念ながら、この歌をよまれた方は、まだ、山に登る気のない(登ろうとしてない人だと思われます。何故かといえば…。 @ ここ(大田市駅)から三瓶山まで 徒歩で登る方法 A 自転車を借りて それに乗っていく方法。 B 自動車を借りて それを運転していく方法。 などなど…。 どの道(手段)でも いっしょですか? アナタが 登るとしたら…? さあ、どの道にします? そういう意味で、「どの道もいっしょ」、という人は「まだ 登る気のない人」といったのです。「わたしが 登るなら…」となれば、「どの道でも…」という訳には いきません。(もちろん、何でもこなす 万能のお方は別ですが) ここで親鸞(しんらん)さまについて いえば、 さらに、その道は 1度(同時に)に、2つも3つも歩むことはできません。 今、ここでは 東京から京都・本願寺までの道(ルート)で考えます。もちろん、京都までの道はたくさんあります。 しかしながら、私の歩む(選ぶ)ことのできる道は1つです。 ですから、ほんとうに道を進もうとするとき、
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| こころの窓 |
| こころの窓 |
| お仏壇は、「こころの窓」と言われます。 というのも、窓には二つの役割(はたらき)があります。 一つには、明かりをとり入れる(採光)ということ。もし、窓が一つもなく、壁だけの家なら、その中は真っ暗です。暗闇というのは不安なものです。 突然停電になった時のことを思い出してください。いくら住み慣れた我が家でも、懐中電灯のある場所にたどり着くまでは、恐る恐るの手探りで、ともすれば片付け忘れた道具につまづいたりします。 やがて、停電が復旧して明るくなると「なんだ、こんなものにつまづいて…」と暗闇での動きが恥ずかしくさえ思えます。 私の心も同じです。明かりがなければ、アテにならないものをアテにして、自分中心の見方や考え方で、愚痴が出ます。お仏壇は、そんな私へ阿弥陀さまの智慧の光をいただく「窓」です。 暗闇の中で迷い・悩むことを仏教では、無明といいます。しかし、その闇が光によって破られた時、身勝手に思い通りにならないことに愚痴をこぼしている自分に気づかされ、多くの周りのいのちによって生かされていた自分が知らされるのです。 二つ目の役割は、汚れた空気をきれいな空気と入れ換える(換気)はたらきです。窓のない部屋の空気は、だんだん汚れてきます。私の心も閉ざされたままでは、よどんで濁ってきます。イライラ・カリカリ・クヨクヨ・メソメソ…と、たまってきます。 その汚れは、光に照らされると明らかになります。ちょうど、暗い部屋に一筋の光が差した時、ホコリがいっぱい舞っているのが見えるのと同じです。 そこで、窓を開けて私の心の中に、きれいな(仏さまの)風を入れます。だから、「心の窓」なのです。 お仏壇のない家は、窓のない家、明かりのない家です。たとえ、どれほど高価な調度品をそろえ、ご馳走を並べても、明かりのない暗闇の中では、満足することはないでしょう。そして、「こんなはずじゃなかった」とか、「あいつが悪い」「先祖がタタル」などと、愚痴になります。 どうぞ、窓(仏壇)のあるお家に住んで、朝晩に窓(仏壇)を開けて(お参りして)下さい。 |
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| 川のための岸 |
| 川のための岸 |
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あるお寺の掲示板に、 そして、その川が海にたどり着くまで、両側に岸辺があります。私が浄土へ生まれるまで、如来さまはこの私に寄り添うていてくださいます。 |
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